『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

主体的な子供を育てたくない人々

朝、バナナを2本並べ「大きい方はどっちだ?」と考えている息子を見ながら、ふと思いました。

こういった「曲がったものを比べる」のような場面は、小学校の算数で「曲がっていたら比べられないね。じゃあ、どうやって比べたら良いかな?」というように、新しい学習の導入として度々使われます。長さだけではありません。重さや量や求積など、様々な場面で「このままでは○○できないね。じゃあ、どうやったら良いかな?」という導入は算数の定番と言っていいでしょう。

でも、比べられちゃうんですよね、曲がっていても。4月から小学校へ通うウチの息子は、バナナの並べ方を数パターン試し、その結果
「よし、こっちがでっかいぞ。うしし」
とバナナを食べ始めました。


多くの教員は、こういう時に子供が間違え“やすい”提示をして、「あれ?おかしいぞ」と思わせようとします。けれども、もし学級に間違え“にくい”子がいて、
「いや、先生はこっちが長いって勘違いさせたいのかもしれませんが、本当はこっちですよね?」
なんてことを言って、さらには
「僕もそう思います」
「私も曲がっていても比べられると思います」
なんて子が数名出たら、授業の導入としては失敗です。これが研究授業だったら
「問題の提示が良くなかった。こういう提示の方が迷い“やすい”でしょう」
なんて話になりがち。また、これが普段の授業だったら
「余計なことは言わないで!」
と教員からストップがかかったりして。
どちらにしても、間違え“にくい”子は、指導がし“にくい”子と思われてしまいがち。ああ、なんとむごい。。。


「主体的な子供を育てよう」とよく言われます。本当は「いや、先生。こっちですよね?」と言ってくる子の方が「主体的」なんだと思うんです。でも、実際は主体的な子供がいると、教員は困る、というこの矛盾。しかも、矛盾と認識されていない悲しさ。
その結果、教員の気持ちを読むのが上手い子は、「先生はここで間違えて欲しいんだな」と自主的にわざと間違える子へと変わっていきます。少なくとも、私はそうでしたね(笑)。

教員が想定した通りに学ぶ子より、教員が想定していないことを言ったりやったりする方が主体的でしょう?でも、主体的な子は教員が操り“にくい”。だから、操り“やすい”子を育てようとして、子供たちの主体性は失われていく。

 

なんて考えている私は、間違っているのでしょうか。

 

私は、想定するのをやめました。だって、想定するから「想定通りに学んで欲しい」と考えたり、逆に「先生の想定通りに学ぶな!」と怒ったりしちゃうんです。(←これもかなり痛い失敗です。)

授業も、世の中も「想定」なんて意味がない。想定できないことばかり。と考えておくのが、「想定外」の事態に苦しめられた福島県教員としての、私の心構えなのです。