『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

学びは日常の中に

堀先生の新刊を拝読しました。

赤坂真二×堀 裕嗣 往復書簡: 転換期を生きる教師の学びのカタチ (教育単行本)
 

学ぶって、特別なことでしょうか。
私は「息を吸うように学ぶ」クラスを目指して授業をしています。それは、我が子が庭で遊ぶ姿を見ながら、「ああ、人はダンゴムシからも学び、落ち葉からも学ぶのだ。人は常に学べるのだ。学びを非日常にしてはいけないんだな」と感じたことが大きく影響しています。
また、『学び合い』に惹かれているのも、子供たちが自然な姿で学ぶからです。
本来、学びとは日常の中にたくさんあるものではないでしょうか。非日常のものではないはずです。同時に、非日常の学びを毎日毎時間繰り返していくことは不可能じゃないかとも感じます。
私自身は、第1章で書かれている「学ばせていただきます」という言葉にそれほど強い嫌悪感は抱きません。その言葉が、学びを必要以上に特別視せず、自然なものとして捉えられているのであれば、使っても良いのではないかと思います。でも、そこからちょっと臭ってくる「学んでいる俺ってかっこいいでしょ?」という雰囲気は嫌ですけれど。
学ぶって、そんなに特別なことじゃありませんよ。きっと自然なものなんです。

 

ただ、「自然な学び」と言っても、それは「放任」とは異なります。教室での学びは、庭での遊びのような偶然性に頼りきったものではいけないでしょう。同じように、教員も、日常の偶然性に頼り切ってはいけないのでしょう。

日常の学びをどうやって深めていくのか。そのヒントが後半に書かれている「メタ認知」にあるのでしょうね。
本書を読みながら、ふと気づきました。ここ数年、私には「話を聞いてくれる存在」がいます。それは、同じ学校の後輩であったり、地域の学習会の仲間であったり、元同僚であったり。その年によって様々ですが、私の話をよく聞き、質問してくれる存在が必ずいるのです。彼らはあまりネットはやらないタイプ。だから、このブログやFacebookでは絡んでいないのですけれど、このブログは読んでいるのかな??
私自身は「学ぼう」というつもりで話しているわけではないのですが、でも、相談にのったり、愚痴を言い合ったりすることが、結果として私にとって非常に大きな学びになっています。薄々は感じていましたが、確信を得ました。
私がメタ認知を深めていくためには、そういった身近な存在と話しているようなことを、形に残していくことが必要なのかもしれません。このブログは、私の「記録」として書いています。個人情報に配慮しつつ、日常的に語り合っているようなことを、ブログに書いていこうかな。

 

本書を読みながら、「日常の学びを大切にしているからこそ、非日常の学びが意味を持つのだ」と感じました。そうしないと、「学んでいるつもりが、成長の手応えを感じられない」なんてことになってしまうのかもしれません。