あるクラスでの授業。あまり理科が得意でない二人が、一生懸命に相談しながら学習していました。ゆっくりと、じっくりと、真剣に学んでいました。ただ、最後は少し時間が足りず、「全員達成」とはなりませんでした。
こういう時に、私は
「どうして教えないの?分かっている人が教えなきゃダメじゃないか」
とは絶対に言いません。
多分、得意な子がガツガツ教えてくれたら、もっと早く終わったでしょう。でも、それが本当に「分かる」こととは限りません。そして何より、子どもたちの関係を悪化させます。その二人を「学び合っても分かるようにならないダメな二人」と私が判断したことになり、二人の尊厳を傷つけることになるからです。
「今日の課題達成」という近くの目標に目を奪われて、「できる人ができない人に教えなさい!」と迫ると、「教える」「教わる」の関係が固定化し、いじめにさえつながりかねません。
得意でない子同士が学び合っていてもいいじゃないですか。「テストで40点の力の子2名が学び合って60点になる」ことも多々ありますし、これはとても素晴らしいことだと思います。教員が「教え手」を固定化させてはいけません。固定化は集団の敵です!
でも、ここで話は終わりではありません。私の場合、得意でない子同士の学び合いを認めた上で、
「頑張ったね!けど、もっと上がるよ!もっとできるよ!」
と求めます。
すると、本当に上がるのです。 間違いなく上がります。
上がるまでの道のりは、単純ではありません。いろんなドラマがあります。
二人でトコトン話し合うかもしれません。二人では分からないことがあって、他の子の力を借りるかもしれません。他の子が助けに来るかもしれないし、二人で誰かのところに聞きに行くかもしれません。誰に聞くか二人の意見が合わずに一時的に離れるかもしれません。そのまま離れているかもしれないし、また一緒にやるかもしれないし。
私には、それをコントロールすることは無理です。子どもたちの歩む道のりは、子どもたち自身にしか決められないのです。
ただ、子どもたちが道に迷わないためには、「多様な人と関わり、より多くの仲間を得て欲しい。そのために、一人も見捨てないことが得なのだと、学校生活を通して、実感的に学んで欲しい」
という私の願いをぶらさずに持ち続け、子どもたちに示すようにしています。
そして、それを実感するためには、チーム全体で課題を達成すること、その課題はどんどんレベルアップさせていくことが必要でしょう。課題のレベルアップが必要なのは、課題が難しくなればなるほど多様性が鍵となるからです。
ちょっとまとまらないのですがら眠いのでここまで…