『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

泳ぐしかないね

授業をもっと自然な営みにしたい。

 

そう考えると、

 

じゃあ、何が授業を不自然にしているの?

 

という疑問も浮かんできます。多分それは、単純な答えはなくて、様々な要因が絡んでいるのでしょう。私が今興味を持っている文脈から見ると、その答えの一つとして

 

現在の学校の成り立ちと、今まで求められてきた役割

 

が、そうさせているのでしょう。

乱暴にまとめてしまうと、明治時代に学制が発布され、それまで文字通り「自然」の中で生きていた農村の子どもたちを「工場の労働者」へと教育する場として学校教育が始まったのだとすると、そこでの営みが「不自然」なものになるのは当然かもしれません。その後も、太平洋戦争までは戦争と国家発展を支える国民を育てるため、その後は戦災復興や高度成長期、バブル経済を支える国民を育てるため、という一面が学校教育には(良くも悪くも)あったでしょうから、そういう文脈で見れば、現在主流となっている学校教育が「こういうもの」なのも当然です。「儀式的行事」とか「運動会の行進」とか「遠足」とか「ラジオ体操」とか「呼ばれたら大きな声で返事」とか「お口にチャック手はおひざせなかにじょうぎ」とか。これくらいにしておきましょう。

 

そして、今。「明治維新以来の教育改革」だそうです。実感はできていませんけれど。でも、大きな変化の波が起きようとしています。

その波は、今までの不自然さを押し流してくれるのでしょうか。

 

私はそうは思えません。当初は

「やっと時代が追いついてきたな」

なんて言ってふざけて笑っていましたが、それは楽観的過ぎました。きっと、新しい波は、新たな不自然さを生み出すだけでしょう。もちろん、だからといって現状維持を支持するわけでもありません。

私は「古い波」の中でも、もがいて泳いできたつもりです。今は「新旧の波」が渦巻いていますが、そこでもなんとか泳いでいるつもりです。今後は「新しい波」の中で泳いでいくことになるでしょう。

どこか遠くからやってきた波が、都合よく求めている場所に運んでくれるわけがないのですから、自分で必死こいて泳ぐしかないのですよね、結局。