『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

それは、名前の問題ではない。

過去に何度も聞いたし、今でも度々聞く言葉。

「『学び合い』という名前のせいで、多くの教員は『学び合わせよう』と強制する。『学び合い』という名前がよくない」

これ、名前のせいだろうか。

もしも『学習者主体授業法』という名前だったら
「『学習者主体授業法』という名前のせいで、多くの教員は『学習者主体にしなきゃ」と放任する。『学習者主体授業法』という名前がよくない」
という話がでるだろう。
もしも『西川式アクティブ・ラーニング』という名前だったら
「『西川式アクティブ・ラーニング』という名前のせいで、多くの教員は『何でも西川先生の言う通りにしなきゃ』と勘違いする。『西川式アクティブ・ラーニング』という名前がよくない」
という話がでるだろう。
もしも、名前がなかったら
「名前がないせいで、亜流や我流が増えすぎるた。名前があった方がいい」
という話がでるだろう。

 

問題が起きるのは、名前のせいではない。

 

一方で、「そういうこと」を言いたくなる状態は心配である。「文句」をつけたいのは本当は「名前」についてではないように感じる。そう言いたくなる何かが、その発言の裏に潜んでいるような気がしてならない。きっとある。何かがある。それは名前の問題ではないはずだ。