『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

手の内を隠したがる

授業をしていると、私は時々、手の内を隠したくなる。特に顕著なのが国語科。物語文の読み取りの授業だ。私は、子供たちが思いつかないであろう「とっておき」の解釈を持っている。何度も授業をしているし、先行研究や先行実践も学んでいる。だから、子供たちよりも様々な読み取りができて当たり前。でも、最初はそれを出さない。
子供たちが一生懸命に読んでいて、ちょっと行き詰まった頃を見計らい、ヒントを与える。

「ねえ、みんな、ちょっといいかな。あのね・・・」
それを聞いて、数名が

「あ!」
と気づく。私は笑顔でうなずきながら、
「どうやら、気づいた人がいるみたいだよ」
なんて言って、暗に「その考えで合っているよ」と示す。そうすると、私が隠していた「とっておき」の解釈が、だんだんと広まっていく。

 

こういう手の内を隠して、後出しするような授業を何度もしたことがある。『学び合い』に出会う以前も、出会ってからも。国語科だけではない。算数科では「こんな解き方もあるよ」と後から示すし、社会科では「こんな出来事があったよ」と知識を披露するし、理科では「観察で、これに気づかなかったかな」と細かい点を指摘するし、体育科や音楽科で、後からコツを示すこともある。こういう授業をやるのは、私にとって快感だからだ。子供たちの学びをコントロールしている感覚。私の力で子供たちを導いた感覚。それは甘美で、そして、危険だ。クラスを、私の想定内に押し留めることになる。それは、集団の力を制限することであり、私の想定を超える自体には対応できなくなることにもなる。私の目の届かないところでは、私の想定に沿わない子が疎外される可能性も高い。

 

ということが、『学び合い』を学べば(理論上は)分かっているはずなのに、それでも、手の内を隠してしまいたくなる。それはどうやら、私だけではないらしい。様々なところで、私以外の方々も同じ過ちを犯している。

もしかしたら、これは「教員病」の1つなのかもしれない。早く完治させたいものだ。