『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

地続きの場

土日は、組合の学習会を主催した。
参加者が12名ほどの小さな会だけれど、私にとっては非常に充実したものになった。参加者の方々も、それなりに満足してくれていたら嬉しい。皆さん大人なので
「楽しかったです」
「また来たいです」
と言ってくれる。それが本当かどうかは次回に分かることだ。その時にまた来てくれるか、友人や知人を連れて来てくれるか。そういうことを大切にしている。

 

私は、民間教育に足を踏み入れているけれど、自分が単独でセミナーを主催したことはない。これからもないだろう。過去に主催者側に立ったのは、みゆき会が郡山で開いたセミナーくらいだ。それで自分の「主催者能力の低さ」にほとほと呆れ(さらには、古田さんと坂内さんは私以上に向いていないのだ)、次に池袋でみゆき会セミナーを行った時には、イマキヨさんとすみちゃんさんにお手伝い頂いた。あれは本当にありがたかった。
その後も「自分ができないことは人を頼る」の戦略を続けている。6月に仙台で『学び合い』の会を開くのだが、それは函館の藤原さんにお力添えをいただいた。それ以外にも宮城のスーパースターが複数揃う。これ、かなり面白い会になりそう。非常に楽しみである。
来月は札幌と東京にお伺いする。札幌ではみゆき会の3人が久しぶりに顔を合わせる。東京では川西さんと南さんに初めてお会いできる。話す内容も、2箇所それぞれで全く異なる。多少のプレッシャーも感じるが、それも含めて楽しみたい。
こういったセミナーは非日常の場だ。わざわざ私を呼んでくださった主催者さんと、時間とお金を掛けて参集してくださった参加者の皆さんのために、特別なものを用意する。よく使われる表現を借りるなら「ご馳走」の発表。材料を厳選し、きちんと盛り付ける。味付けも濃いめ。
雑誌や書籍に原稿を書かせていただくのも、やっぱり「ご馳走」の発信となりがち。決められた文字数と様々な条件の下で書くものだし、私は企画の意図を無視せずに書きたい。せっかく依頼していただいた以上、書き散らかすわけにはいかない。
SNSでも発信も、非日常の「ご馳走」だ。ちょっと見栄えよく整えがち。中には、盛り過ぎてこぼれ落ちている発信も見るので、自分もそうならないように気をつけている。

そういうご馳走的な発信と比べ、勤務地近くで毎月行っている学習会は、日常のもの。今回のような小規模な会も毎年、継続的に行っている。これらも私は運営下手なので、関谷さんという仲間に助けてもらっている。運営担当は関谷さん、コンテンツ担当は私、という役回りで10年間続けてきた。

参加者は、同僚や元同僚だったり、元同僚の同僚だったり、参加者の友人知人だったり、といった狭いコミュニティーである。狭い分、嘘はつけない。盛りすぎたらすぐにバレて格好悪いだけでなく、信頼も失う。10年間ほぼ毎月行っているのだ。無理なご馳走が続くはずがない。私がより成長できるのは、ご馳走を用意した時ではなく、こういう自分の教室と近い場で活動している時だと強く感じる。
もちろん、勤務校は大切だ。でも、人間は閉じた世界だけでは健全に生きられないとも思っている。自分の実践を開いた場に出すことは必要だろう。かと言って、セミナーやSNSのような空中戦ばかりに目が向いていると、自分の実践が霧散していくようで不安にもなる。地に足をつけて生きていくってやっぱり大切なのだと、この歳になって強く感じる。


だから、『学び合い』では、各地に小さな『学び合い』の会を作ろう、という動きになっているのだろう。それぞれの実践者が、自分の教室と地続きの場を持っていることは、健全に実践を積み重ね、力を高めていく上で重要なことじゃなかろうか。教員が幸せに働いていくためには、職能アップは必須だろう。(もちろん、それができない人もいるけれど、『学び合い』な私にとって、そういう人も「一人も見捨てない」方が得なのは言わずもがな)
で、組合って本当はそういう機能も持っているはずなんだけれど、そうじゃないと考えている方が多いし、実際にそうじゃない場合も多々あるようだ。

残念だけれど。