『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

全ては計画的犯行

勤務校ではインフルエンザが大流行中。

具合が悪そうな専科の先生が「熱がないので大丈夫です。午後の授業をやってから帰ります」と言っても許さず

「ダメです。もう一度計ってください。…ほら、やっぱり熱が上がっているじゃないですか。我々は子供たちにうつさないのも仕事のうちです。帰るべきです」

とおっさん臭く説教。その場ですぐに他の先生にインターホンで授業変更の連絡調整。早退していただいた。案の定夕方にはインフルエンザA型との連絡がきた。

その後、高学年の担任の先生が体調不良で早退。やっぱりインフルエンザA型の連絡。すぐさま同学年の先生に合同でやれそうな授業と、各教科の進度を確認。3日分の補欠案を作成し、プリント類を準備。さらには、子供たちに配布する予定表も作成&印刷した。

 

そして、今度は私の番。

息子がインフルエンザA型になった。明日は看病のため、休みを取る。

私が他の方を助けるのは、こうして自分も休むことがあるからだ。若い頃にはこんなことは考えなかった。年休取得が年に3日だったこともある私である(いや、4日だったかも)。

「俺は休まないのに、他の人は休んで、損してる気分だ」

なんて言ってたくらい。本物の馬鹿である。馬鹿は現在のことしか考えないのだ。

その後、ほんの少しだけ先を考えるようになった。だから、助ける側に立つときには全力で助ける。そうすれば、甘える時には遠慮なく甘えることができる。親切ではない。もっと打算的、計画的なのである。性格が悪いね、本当に。

 

もちろん、中には性悪な私をよく思わない人もいるだろう。そういう人に何を言われても、私は攻撃をしない。攻撃をすれば反撃されるからだ。困っているのを無視するのも攻撃と受け取られかねないので、仕方ないから、そういう人が困っていたら、一応は助ける。ただし、最低限だけだ。職場で私の「助け」がないと困る、と思われるだけの働きをしておくことで、「あまり助けない」ことが、ある種の警告となる。

「高橋 の助けを得られなかったら損だ」

と思ってもらう方が、無闇矢鱈と攻撃し合うよりもずっと楽に感じる。

 

ということで、明日は看病である。

自分がうつらないように気を付けなければ。