『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

地区の防災訓練

今日は地区の防災訓練に参加した。宮城県沖地震や東日本大震災を経験している地域だからか、参加率は高い。小中学生は「登校日」扱いのため、親や祖父母が小中学生と一緒に参加することも大きな要因かもしれない。それだけ「本気」とも言える。避難場所は小学校。学校の先生方は、児童の安否確認で忙しそうだった。

 

東日本大震災の時は、当たり前だがもっと忙しかった。私も、我が子の安否が不明の中、避難所の準備を行っていた。夜中になって、停電で真っ暗な中、津波と地割れと崖崩れで分断された道路を縫うように帰宅した。我が家は無事だったが、当時置いてあった大きな水槽が割れ、ガラスが散乱していた。避難所を回って家族と再会。でも、すぐ近くでは、まだ家族と会えずに泣きじゃくる児童や疲れて眠る児童に寄り添う先生方の姿があった。

医療関係者の知り合いは、震災から3日間帰宅できなかったそうだ。「我が子はきっと無事だ。誰かが守ってくれている」そう自分に言い聞かせて、目の前の命を守ることに全力を尽くしたという。そういう親もいるのだから、代わりに、その人の子供を守った人もいるということだ。本当にギリギリの非常事態を生き延びるには、助け合うしかない。

私も、日が昇ると同時に一度帰宅し、自宅を片付けてから職場に戻った。自宅が無事だった人も、多くは数日間避難所で過ごしていた。余震が続いていたからだ。自分もほとんど何も食べていなかったが、避難所となった職場で食事の準備をした。私の分のおにぎりは、家に持って帰って子供達と分けた。当時息子は0歳だったので、夜泣きもあり、避難所にいるのがはばかられた。そのため、すぐに自宅に戻ったのだが、避難所に居ないと食事や水の面で少々困った。同僚の中には自宅で水道が使える方もいて、大量に分けてもらった。

息子が原因不明の高熱を出し、医者も検査のしようがなく、祈るような夜も過ごした。

そんな状況も、2、3日で改善した。息子の熱も数日で下がった。何日かかったか忘れたが、徐々に電気や水道が復旧して、ガソリンや食料も手に入るようになった。

安心したのも束の間、原発の爆発で家族は避難し、家族と離れて生活もした。あの時の放射線の影響がどの程度なのかは、今でも分からない。

 

震災のことは、普段の生活では忘れている。かなり大きなストレスだったから、それで良いのだろう。でも、こんな時にふと思い出して苦しくなる。まあ、私の経験などヌルいものだ。警察や消防の方は言わずもがな。教員の中にも凄惨な場を経験している方が大勢いる。役場の職員さんからも凄まじい話を山ほど聞いた。

公務員は、全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない。この言葉は重い。「教員なんて安い給料でこき使われてる。時給にしたらバイトより安い」なんて嘯いている人の言葉を信じずに、現在の「平均給与」のことをちゃんと調べてみるといい。

教員は、それなりの覚悟の必要な仕事である。志望者が減っているのは悲しいことだが、仕方ないのかもしれない。様々な報道や情報が、真偽不明のものも含めて飛び交っているが、それでも教員を目指してくれている若者、教職に就いてくれた若者のことを全力で助けたいと思っている。