『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

宮城県で働く小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。2月に単著発売予定「流動型『学び合い』の授業作り」発売

技術と愛と不足の話

私は「技術」を前面に出さずに授業をしたいと思っている。
とは言え、全く使用していないわけではない。

私の授業の基盤は、教員4〜7年目の頃に作られた。同じ学校に勤務していたY先生という県内では非常に有名な算数の大家から学んだことが大きい。『学び合い』を始めてからも、課題の作り方、授業や単元の導入方法などで活用している。私のトンデモ理論「授業6段階説」のうち1〜4段階についても、Y先生の教えがベースだ。
『学び合い』に出会う以前はこれらの技術を使って「今で言うスタンダードな授業」に取り組んできた。そこそこ努力していたし、そこそこの腕はあったと思う。
しかし、私はその授業に限界を感じた。
「私が腕を磨き続ければ、いつの日か全ての子を救えるようになるのだろうか。いや、そうは思えない」
技術を磨いていく先に、答えがあるとは思えなくなったのだ。そのため、『学び合い』へと進んでいった。
そういった経緯があるので、私は意図的に技術的な話を避けているのだな、と自己分析している。私の技術で「学ばせ合い」をしたくない、という思いもある。人が持つ「学び合いたい」欲求を可能な限り生かしたいという思いもある。でもやっぱり一番は「私程度の技術では、子供達を救えなかった」という経験が大きい。
また、若い教員が一生懸命に工夫をしているのに、空回りしているのを見ることもある。ベテラン教員が今まで通用した技術が通じない子供達に出会い、唖然としているのを見たこともある。技術はないよりはあった方がいいけれど、生半可な技術だけでは子供達を救えない。多分、有効な技術とは「愛」とセットなのだ。

 

愛と言うと胡散臭くなる。でも、愛がなければ始まらない。そして、教育は子供達への愛が不可欠だ。若い教員が「愛」を忘れるのは、先輩教員や管理職の目を意識し過ぎた時が多いようだ。逆に、ベテランは、ベテランである故に周囲の評価を恐れ、愛を見失う。
子供達は、教員をよく見ている。愛を失った指導は、求心力を失う。
と言うと、
「でもね、なおたかさん。子供達を愛していない教員なんていないよ。それぞれの教員が愛を持って子供達に接しているんだよ」
なんて言葉が飛んでくるのが分かる。そうなのだろう。でも、そこがやっぱり私とは違うのだ。
私は、子供達を愛している。でも、どんなに愛しても、足りないのだ。一人の教員の愛で、クラスの子供達全員を照らすことはできない。私は、『学び合い』のせいでそれを知ってしまった。
もともと「熱血」タイプだった私には、「技術だけでは子供達を救えない」ことよりも「どんなに愛しても足りない」ことの方が精神的ショックが大きかった。けれど、冷静に考えてみれば当たり前だ。親だって30人の子供に十分な愛情を注ぐことは無理だろう。親ではない私には、とうてい無理だ。

 

技術も愛情も、どちらも必要だ。

しかしながら、技術でも救えない。愛でも救えない。

 

じゃあ、どうするか。
私が出した答えは「みんなにやってもらう」ことだ。子供達による自助と互助。それが成り立つためには、子供達の納得が必要だ。まずは私の技術や愛には限界があることを子供達に素直に伝えるしかない。子供達を信頼し、私の弱音をさらけ出す。でも、それを受け入れてもらうには、私なりに精一杯やっていることが前提だろう。そこを認められなければ、ただの手抜きだと思われてしまう。
一般的には「あれもこれも先生がやって当然」と考えられている中で、私があれこれを手放すには、さらけ出すしかないと思っている。
技術も愛も不足しているという自覚がある私は、以前お話をいただいた「『学び合い』のやり方の本」を書き上げることができなかった。私が『学び合い』で使っている技術や教材への考え方を説明することはできる。雑誌原稿には書いたこともある。でもそれは、必須のものではない。それがなくても私は授業ができる。


今の私に不可欠なものといえば、泥臭く前に進むしかない、というあきらめにも、信仰にも似た想いだけである。『学び合い』がもう少し広まり、「あれもこれも子供達がやることも、ままある」という認識も広まれば、もう少し楽になるのだろうけれど。