『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

宮城県で働く小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。2月に単著発売予定「流動型『学び合い』の授業作り」発売

函館から帰ってきました。

2回目となる「函館『学び合い』の会」が終わった。帰りの新幹線では書ききれず、帰宅後にこれを書いている。

今回は、いつになく迷いながらの発表だった。直前まで、何度もスライドを変更した。iPhoneのKeynoteが固まって、普段は持ってこないパソコンを持ってくれば良かったと後悔したほどに変更した。そうなりそうな予感は前からあったんだけどね。


函館『学び合い』の会初日は模擬授業中心。前半は若い先生方だった。

Iさんの国語は、「書きなさい」という圧を可能な限り排除しようとする姿勢が興味深かった。

Yさんの算数は、学び合う必然性を「大人」相手に起こす試みが面白かった。

Aさんの理科は、遊びと学びの垣根を取っ払おうとする意気込みがストレートに伝わってきた。

 


後半は手練れによる模擬授業。

Sさんの音楽は、確かなねらいが裏にあるのに、それが少しも鼻につかないように「楽しい(だけじゃないけど、でもやっぱり楽しい)活動」が並べられていて、唸らされた。

Mさんの道徳は、いわゆる「変化のある繰り返し」が確かな計算のもとに過不足なく展開し、否応なしに引きつけられた。

藤原さんの総合は、子供達が「調べざるを得ない」状況に吸い込まれるカリキュラムが見事だった。


最後は2つの提案。

Nさんの発表は、私の興味関心にジャストミートした。聞きながら、怖いくらいに脳味噌がバチバチしていた。今まで考えてきたことが、どんどんつながる感覚。シナプスの音が聞こえるかのようだった。「語り」と「授業」の融合。「進路指導」と「学び合い」。大きなヒントをいただけた。

Hさんの発表は、私の知らない世界。家庭教育、受験指導のプロフェッショナル。この世界と、クラスで「崖っ淵でビクビクしているのに、教員に気付かれないどころか『あの子は大丈夫』と別の意味で見捨てられている子」をつなげらないだろうか。いや、そうしたら公教育はどうなるだろう。今の瀕死の公教育にとどめを刺して欲しくなるくらいのインパクトだった。久しぶりに考えすぎて、脳味噌がヒリヒリするような話を聞くことができた。

バチバチからのヒリヒリ。たまらんのう!
懇親会の最中から、2日目に話すことを、あれこれ考えていた。

ホテルで朝焼けの空を眺めながら入浴していても頭から離れないし、会場に着いてからも悩んだ。

 


そして2日目の最初は大野さんの発表。圧巻の迫力だった。大野さんは余計な装飾をしない。確かな腕があるのにそれをひけらかさない様は、まるで寿司職人のようだ。だからこそ生まれる迫力。「失敗した」「できていない」と語るけれど、そこには開き直りも、卑下もない。謙虚、というのとも違うなあ。事実を認識し、それを乗り越えていく、その経過のありのままをただただ示してくださったのだろう。

 


で、私の発表。

迷いに迷い、未消化だったのが否めない。無理にまとめようとして、とっちらかった。

果敢な試みを示すわけでもなく、自分の持っているものを精一杯発揮するのでもなく、新しい世界観を示すのでもなく、ありのままを示すのでもなく。

突き抜けられなかった。

原因は多分、初日のNさんとHさんの発表に脳味噌が感化されたから。今までモヤモヤとしていたところに、斬りつけられたようなイメージ。でも、まだ晴れない。そう簡単にブレイクスルーは生まれない。

 


いや、違うのだ。本当は分かっているのだ。

脳味噌のモヤを晴らすには、私は今の立ち位置を変えなくてはならない。そこから逃げているから、迷ったままなのだ。うむむ。やだなあ。

 


そして、もう一つ。

大野さんからの「一人も見捨てない」についての問いかけにも、遠からず答えなければならない。他でもない、あの大野さんからである。中途半端にはしたくない。自分を追い込むためにも、ここに書いておく。

 


何ともあれ、参加者の皆様、ありがとうございました。

そして、藤原さん、いつもありがとうございます。