『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

宮城県で働く小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。2月に単著発売予定「流動型『学び合い』の授業作り」発売

研究授業は必要だ

タイトルにも書いたが、私は、研究授業は必要だ、と思っている。
最近、ネット上で「研究授業なんて要らない」という意見を複数見たので、声を大にしてこう言いたくなった。

「働き方改革」は必要だし、学校に不要な物がはびこっていることも認める。しかし、研究授業がなくなることで、学校が良くなるとは思えない。もし、校内研究やそれの伴う研究授業がなくなったら、ますます苦しくなる人が増えるだろうと予想している。
私の授業を下支えしている技術や授業理論のほとんどは、校内研究や研究授業で培われてきた。校内研究と全く別で取り入れたものは、『学び合い』の理論くらいである。しかし、『学び合い』の理論を理解し実践するのにも、校内での研究授業は大いに役立っている。
こういう場が、学校からなくなったら。。。ちょっと怖い。

 

また、教員は「絶えず研究と修養に努めなければならない」と定められている(教育公務員特例法第21条)。教員は研究と修養が不可欠な仕事だ。私も「もっと時間が欲しい!」「余計な仕事を減らしたい!」と考えているが、でもそれが「研究授業が不要だ」という結論には結びつかない。「もっと研究をするために、時間が欲しい」のだ。
「研究授業だけが、教員にとっての研究と修養とは限らない!」
という反論が聞こえてきそうだが、でも、常に研修を重ねている教員なら、研究授業や指導案作成くらいで、ガタガタ言わないだろう。研究授業を不要だと言う教員のうち、「研究授業」以外で、絶えず研究と修養に努めていると言える者がどれほどいるのだろう。


「ベテランは逃げてばかりで、若手にだけ研究授業をさせる!」
という不満の声も時々耳にする。研究授業を避けるベテランがいることも否定はしない。が、しかし、そう言う若手に問いたい。もし、今あなたが研究授業をしなかったら、あなたが批判しているそのベテラン教員と同様に、研究授業から逃げたくなる程度の力量しか身に付けられないのではないだろうか。それは、研究授業がなくなれば解決するのだろうか。研究授業がなくなっても、普段の授業で苦労するのは変わらないのではないだろうか。

 

ただ、研究授業を「苦行」と捉えすぎる風習は、私も嫌いだ。研究授業が普段の授業に還元されないのも馬鹿らしい。それどころか、研究授業の準備に時間を取られすぎて、普段の授業がおろそかになる、なんて本末転倒なこともある。

そうなるのは、時間をかけ過ぎるからだ。時間をかけることが良いことだ、という考え方には、大反対。私は指導案作成に合計で5時間くらいしか時間をかけない。まずは3時間くらいで粗方書いてしまう。1日で3時間かけて書く時もあるし、2〜3日に分けて書くこともある。細部はこだわらない。その状態で人に見てもらう。ざっくばらんに意見をもらって、修正する。相談や修正には、多分、2時間くらいしかかけていないだろう。で、合計5時間が目安。3時間で書けないのは、「案」が煮詰まっていないからだ。未熟な私は3時間で書けない時もままあるが、そうなりそうな時は早々にあきらめる。考え込まない。考えながら書くから、時間がかかるのだ。普段から
「こんな授業を試したいな」
「こういう授業をやってみたいな」
と考えていたアイディアを試すのが研究授業。だからこそ「絶えず研究と修養に努める」ことになる。書く前に勝負はついている。そして、研究授業当日は、私一人では見えないものを、多くの参観者の目で炙り出してもらうことに大きな意義と成長の糧がある。

なんて偉そうに書いているが、私がこういうやり方で研究授業ができるようになったのは、そういう先輩がいたからだ。私の力ではない。
実際に一緒に働いた方としては、Y先生がいる。公的な立場(今は某県教育庁の主幹である)にいる方なので、お名前は伏せておくが、私がずっと目標にしている方である。私がそれまでの授業を捨て、『学び合い』による授業に躊躇わずに飛び込めたのは「このままじゃY先生の授業を超えられない」と思っていたから、というのも一因だ。Y先生は算数のエキスパートとして県内でも大いに名を馳せているにも関わらず、研究授業では提案性のあるものを必ず行う。それは常に自分の授業をブラッシュアップしようとなさっているからだ。
そういう先輩や上司になかなか巡り合えない、という人もいるだろう。でも、今はネットがある。私がネットで出会い、強烈な影響を受けたのは、みゆき会の坂内智之さん。坂ちゃんのブログを読まなかったら、今の私はないな。坂ちゃんは現在、残念ながらオープンな発信はあまりしていない。Facebookが中心である。

ネット上のやり取りを見ていて残念なのは、
「研究授業は不要だ」
「あんなの何の役にも立たない」
という意見の方は、そういう方とだけ繋がる傾向があるように感じること。ブログやHPのようなオープンな場と、TwitterやInstagramのような半分閉じた場の違いかもしれない。研究授業が不要だという立場の人との繋がりが太くなればなるほど、研究授業から学べなくなっていく、というのは私の勘違いだろうか。研究授業に意義を感じられない方は、私のような人間の意見をちょっと聞いてみて欲しい。そして、ちょっと考えてみて欲しい。研究授業なんてそれほど大変じゃないぜ!と言えるようになったら、普段の授業だって楽しめるようになる。
もちろん私も、「研究授業なんて・・・」という方の声に耳を傾ける。そして、学校の同僚やネット上で出会った若い教員の皆さんのことも、もっと考えてみるようにしたい。もし再び研修主任をやれる日がきたら、授業技術を学んだり、教材研究をしたりするような、研究授業以外の研修の場を設けたいとも思っている。でもね、過去の経験に縛られているとも言えるけれど、やっぱり思うのだ。研究授業は必要だ、って。だって、どんな研修をしても「それが効果を発揮したかどうか」を見る場が必要だから。

 

なんて言いたくなるのは、頭が硬くなってきているのだろうか。