若い同僚には、たびたび「好きの反対は、無関心」という話をする。
元ネタは「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」というものらしい。検索すると、マザーテレサの言葉だとか、全く別人の言葉だとか、色々と出てくる。本当のところは、よく分からなかった。
大人だって子供だって、嫌いな人にわざわざ「嫌い」なんて言わない。嫌いな人なら、無視をする。だからこそ、無視やシカトという行為がいじめになる。
「先生なんて嫌い」
とわざわざ言ってくるのは、それしか関わり方が見付けられないからかもしれない。そんな話だ。
以前、若い同僚から
「廊下に立っていたら、担任している子に『あの野郎、どこ行きやがった!』と言われたことがある。本当に嫌われているんだと思った」
なんて話を聞いた。その子との関係は、なかなか難しい状態だったそうだ。でもね。その子が本当に担任が嫌いだったら、教室から居なくなって「どこ行きやがった」なんて言うだろうか。「居なくなってよかった」と言うのではないだろうか。だから、嫌われている、と捉えるのは間違いだと、私は思う。それでも、苦しい状況なのは、間違いない。暴言を吐く子も苦しいし、それを聞く担任も苦しい。そして、きっと、周囲で見ている他の子達も苦しい。そんな状況だ。
苦しさから抜け出すには、思い込みを捨てることだと思っている。
嫌われているに違いない。好かれなくてはならない。
そんな思い込みを捨てること。それがなかなか難しいのだけれど、なぜ難しいのかは、段々と見えてきた。さて、どう対策を練るか。これを見付けておかないと、この先、教員として生きていけないかもな。
つづく