『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

宮城県で働く小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。2月に単著発売予定「流動型『学び合い』の授業作り」発売

「誰のための卒業式か」なんて簡単に言ってはいけない

先週の木曜日が卒業式だった。

私のクラスの子供たちは複数の中学校に分かれて進学するので、今週は中学校を回って引き継ぎを行っている。でも、なんだか今年度が終わるという実感がない。4月から新しいクラスを持つ心の準備が全くできていない。

それは多分、あっさりと終わった卒業式のせいだ。認めたくないが、そうなのだ。

ほとんど練習をせず、式の直前に25分間練習をしたただけの卒業式。呼びかけも歌もなく、証書授与と校長先生のお話だけの卒業式。きっと同じような卒業式が日本全国で行われ、

「これで充分だろう」

という声と

「これじゃ物足りない」

という声に分かれているに違いない。

私は前者の立場だ、と、思っていた。練習し過ぎて当日には子供たちが半分飽きているような卒業式は嫌だ。予行練習で感極まって泣いた子が当日は冷静になっているような卒業式は嫌だ。そう思っていた。

それなのに、短縮卒業式が終わってから「あれ?」と感じている。物足りないような、寂しいような、そんな気持ちになっている。おかしい。卒業式なんて、もっとシンプルでいいと思っていたはずなのに。なぜだ!?なぜなんだ!?

理由は簡単だ。卒業式には、私が「終わった!」と充実感を得るという機能があったのだ。6年担任は楽しいけれど、忙しい。苦しさもある。何度も繰り返し6年生を持つ中で、卒業式で「ああ、これで終わりだ」とリセットをするようになっていたのだ。

そしてそれは、私だけではないのだろう。過去の先生方も、卒業式を見ながら「ああ、色々あったけれど6年生担任で良かった。この立派な姿を見られて良かった。これで4月からも頑張れる」と感じていたのだろう。そう感じるためには、できるだけ安心して卒業式当日を迎えたいから、十分な練習をして入念なリハーサルをしておきたい。その思いが、見方によっては「やり過ぎ」に見える内容や練習につながっていたんじゃなかろうか。


私自身は「そうは言っても、やっぱり卒業式は私のためにあるわけじゃないよな」と思う。一方で、来年度以降「やっぱり卒業式はしっかりやらないと!」と感じている人がいることを理解しなけばならないし、そう感じるにはそれなりの理由があるのだとも心に留めておかなければならない。もし、充実感を得られないままに6年担任を終わるのなら、ほとんどの教員が潰れる。「卒業式以外に充実感を得られない力不足の教員が悪い」と自己責任論を持ち出すには、今の学校は忙し過ぎる。今の学校で、力が十分な教員なんて、ほとんどいないだろう。


また、教員だけじゃなく、子供たちも多様だから、「卒業式は短くていい」と思う子もいれば「卒業式はちゃんと練習してやりたい」と思う子もいるはずなのだ。


そう考えているから、様々な場で見られる「卒業式なんてこれでいい!」と言い切る言葉に、苦しさを感じる。「誰のための卒業式かを考えるべきだ」という声にも、ちょっと待って、と思う。世の中をシンプルに考えることも時には必要だろうけれど、でも、それじゃ学校を変えられないと思うから。

色々な思いがあるのをちゃんと認めて受け止めた上で、その重みに押し潰されることなく立ちつつ、重い決断をする。そんなことができる人に、私はなりたい。まだまだ、先は長いけれど。