『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

言い換えるなら、無責任

頑張ってるけれど上手くいかない時がある。そんな時にはちょっと休んだ方がいいのだと思う。

なぜなら、頑張らなくてもいいことを頑張り過ぎて、やるべきことがやれていない可能性があるから。

 

けれど、「俺、頑張りどころを間違えているな」と自分で気付くって難しい。

一つは、能力的な面で難しい。自分をメタ認知するためには、それなりの訓練が必要なのだと思う。自分が見ている自分の姿は、実際に見えているわけではない。言わば「想像」の姿だ。その想像の精度を上げるために、私は、信頼できる人たちに自分がどう見えているのかを確認し、それと自分の想像を対比することで、訓練をしてきた。物理的にも心理的にも近い人から遠い人まで、様々な意見を受け入れようと努力してきたけれど、簡単に高まるものではないなあと実感している。

もう一つは、精神的な面で難しい。頑張っている自分を認めて欲しい、褒めて欲しい気持ちは、なかなか捨てられない。間違っていると気付いても、このまま続けていけばもしかすると状況が変わるんじゃないかと期待してしまう。「努力は報われる」を期待する、ある意味でピュアな気持ちだろうか。それとも、「もしかすると…」と期待してギャンブルにのめり込む心境に近いだろうか。

 

どちらにせよ、頑張りどころの間違いを素直に認め、前言撤回・方向転換ができるようになってきたのは、ここ数年である。

若い頃は、素直に「ごめんなさい」も言えなかったなあ。間違っているかもしれないと感じても、始めたことは最後までやりきりたかったし、やり切ることが正しいと思っていた。

それは、若さゆえの熱意というよりも、ただただ未熟だったのだ。そして、言い換えるなら、自分の仕事に責任を持っていなかったのである。

だから、頑張っている自分可愛さのあまり、それによって苦しんでいる子供たちを見ようとしなかった。見ようとしなければ、見えない。だから、自分が子供たちを見捨てていることにさえ気付いていなかった。

 

じゃあ、今はどうだろう。今だって、やっぱり責任を果たせているとは全く思えない。未熟。能力不足。自分の無力さに、打ちひしがれることも多い。

それでも今は、以前よりは逃げずに立ち向かえるようになった。楽ではないが、「頑張っているんだから、許してよ」と無責任に生きるより、その方が性に合っている。

あ、でも、若い先生は逃げていいと思う。じゃないと、精神がもたないから。私はそれなりに逃げなくなるまで、20年近くかかったし、今後も逃げずにいられる自信はないので、他の誰かを責める気は毛頭ない。