子供たちを見ていると、ある種の生きづらさを抱えている子が見える。
みんなと仲良くしているのに、なぜだか浮いてしまう。
楽しそうに過ごしているのに、どことなく苦ししうでもある。
親しくしているけれど、知らぬ間に人を傷付けている。
まあ、多かれ少なかれどんな人にもあることだろうが、あの子はそれが顕著に多いよなあ、と感じることもある。そういう子を見ていると、シンパシーもあって、切なくなる。私もそういう子だったし、今もそうだ。
でも、生きづらさは、人からなかなか気付いてもらえないように思う。私が気付かないところで、生きづらさを抱えている子もいることだろう。気付く苦しさと同時に、気付いてあげられない無能な自分を感じて、余計に苦しくなる。妄想と言えば、妄想。そういうところが、私の生きづらさなんだよね。笑
一方で、うまく生きているように見える人も、その裏では、苦しみながら、必死にそういう状況を作っている場合もある。水鳥が水面の下で足掻いているように。
「あの人はいいよな」
と言ってしまいたくなるけれど、そんなことを言ったら、そのうち後悔することになりそうだ。
生きづらさを抱えながら、それでもなぜ、私は生きていきたいのだろう。と、考えた瞬間に、斉藤和義の歌の一節が頭に浮かんだ。
そんなの“家族”に決まってるでしょう!
斉藤和義「月光」
やっぱりそうだよなあ。
と、雨の動物園で、じっと動かないホッキョクグマを眺めながら考えていた。