『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

宮城県で働く小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

私はそうは思わない、というだけの話

研究授業シーズンなのだろうか。SNS上で、研究授業についての発言を多く見かける。その中に「私はそうは思わないんだけどなー」という話を二つ見つけたので、自分の考えを整理しておきたい。その二つとは、こんなものだ。

  • 研究授業だからといって、特別な授業をする必要はない。いつも通りの授業をすればいいのだ。
  • 研究授業に成功も失敗もない。そもそも、授業に成功も失敗もないのだ。

なるほど。どちらも一理あるとは思う。でも、私はそうは思わない。

 

研究授業だからといって、特別な授業をする必要はない。いつも通りの授業をすればいいのだ。

これは、普段は絶対に使わないような教材教具を大量に準備し、スペシャルな授業をすることに対して、「同じような授業を明日以降やれないだろう。そんな授業をやっても意味がない!」という気持ちのこもった批判なのかな、と感じている。まあ、それは分かる。正しいとも思う。
でも、同時に「研究授業はいつも通りの授業を見せればいい」というのは、「自信のある人」の意見だなとも感じる。人事評価制度以前からその傾向はあったが、ここ数年で研究授業は今や研修の場ではなく教員評価の場になってしまったと感じる。評価されるとなれば、多くの子が普段は勉強しないけれど試験前には勉強するのと同じように、多くの教員が普段はしないことをしたくなるのが自然なんじゃないかな。だから、「いつも通りの授業をすればいい」とは言わない。

普段と違うことがしたいなら、プラスになる方がいい。同僚には「授業力の向上につながる視点」を提案したり、「あなたが今年頑張りたいことが何なのか教えてよ。そこについて参観者から意見をもらいましょうよ」と呼びかけたりしている。「上手い・下手」「成功・失敗」という評価を貰う場ではなく、自分が頑張っていること、もっと頑張りたいことを見て、意見を貰える場になったら嬉しいし、自分もそこに寄与したい。

 

研究授業に成功も失敗もない。そもそも、授業に成功も失敗もないのだ。

この意見も分からなくはない。もう少し詳しく言うなら、パッと見て分かる成果で、授業の成果は計れないよねー、と思う。

ただ、私にとって研究授業には二つの目的がある。

一つは、クラスを磨くこと。クラスは人に見られることで輝いていく、私はそう感じている。私一人では見きれない子供たちの姿を、多くの目で、多様な視点から見て見てもらうことで、子供たちは伸びる。研究授業の準備はそれなりに大変だ。私は指導案を書くのが早い方だと思うけれど、それでもやっぱり疲れる。でも、子供たちが伸びるから、クラスを見てもらう価値は高い。現状の学校では、研究授業をするのが、一番、緊張感を持って参観してもらえる。せっかく研究授業をしても、子供たちにプラスにならなかったら、失敗だなあ。

もう一つは、参観者への提案だ。ウチのクラスはすごい。今まで担任したクラスも、今年のクラスもすごい。年度によってカラーは違えど、毎年毎年すごい子達ばかり担任させてもらっている。この「引き」の強さが、私の強みだ。ウチのクラスを見たら、全員とは言わないが、少なくない教員が、教育観・授業観を揺さぶられると思う。そして、揺さぶるために授業を公開する。

逆に言えば、私は子供たちのすごさが伝わる授業をしなければいけないと思っている。それが私の責務。子供たちの一部は「もっと『学び合い』が広まって欲しい」と切に願っているから、その子たちのためにも、そういう授業ができなかったら「失敗」なのだ。(中には「広まらなくていいよ」と思っている子もいるかもしれないが、その子が心配するほどには『学び合い』は広まっていないから許して欲しい)

 

 

批判の多い研究授業と指導案。今後、新しいものは生まれるのだろうか

若い先生の中には「研究授業で指導案を書くなんて意味がない」と思っている人も少なくないのだな。それはきっと

  • 指導案を読んで、そこに込められた意見や意図を的確に読み取れない。
  • 意味のある指導案が書けない。

という問題と、

  • 今後重視されていくであろう授業スタイルに、今の指導案のスタイルが合わない。

という問題が混在しているように思う。私だって若い時、書く意味がない指導案ばかり書いていた。また、『学び合い』による授業は、一般的な指導案の形式で書くには無理がある。板書はしないし、導入で「じゃ、始めましょうか」なんて言うだけだし。『学び合い』に限らず、ワークショップ型とか協同型の授業をやっている人は、指導案が書きにくいんじゃないだろうか。

一方で、児童観とか指導観とかをちゃんと明確にできない人は、長く『学び合い』を続けていくと、苦しくなるとも思っているけれど、それはまた別の機会に。

もしかすると、どこかでイノベーションが起こって、指導案に変わる何かが開発されるんじゃないかと期待している。それは「新しい形式の指導案」という改良ではなく、全く別の新しい何かであって欲しい。そして、その頃には私もすっかり頭が硬くなり

「昔は授業の前に指導案を書いたのに、今はこんなモノしか用意しないで、だから駄目なんだ」
なんて文句を言うようになっているのかもしれないな。