『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

原稿を書くための下書き的な殴り書き

普段の授業に四苦八苦していた先生が、ネットで情報を集め、本を読み、教材研究をして授業をする。発問も練った。板書もきれいに書けた。子供達はたくさん発表したし、「楽しかった」と言ってくれた。テストの点数も上がった。仕事が楽しくなってきた。先生としてやっていけそう!

でも、そう思っていても、クラスに登校を渋る子が出てきたり、いじめが起きたりする。それを「気にしない」先生だと、徐々に崩壊が始まる。「何とかしようとする」先生だと、どうにもできずに悩む。そのうち、管理職からキツく指導されたり、保護者からクレームが入ったりして耐えきれなくなっていく。

残念ながら、今の学校は、授業がそこそこ楽しければ上手くいく!なんて言える状況ではない。いや、学校で過ごす時間のほとんどが授業なんだから、授業が楽しいのは絶対に必要なんだけれど、でも「それ、みんなが楽しいの?」ということが問われるようになった。

これは苦しい!

先生が用意した「楽しい授業」を楽しめない子やその保護者が、「私はつまらない」「我が子はできていない」と主張することが増えたからだ。その場が各種調査やアンケートとして用意され、それに伴い主張する権利があるだと気付いたのであろう。それは好ましいこと。分からないまま黙っている必要はない。もう分かっていることを黙って聞いている必要もない。

一方で、教員が全員を楽しませることは無理だと、私は考えている。

私は普段からはっきりと「無理です」と言っているし「だから、自分たちで楽しめるようにしよう。自分だけが楽しもうとするのは、おすすめできません。みんなでみんなが楽しめるようにすることがおすすめです。何故かというとね・・・」と伝えている。それに一定数の児童が納得してくれているから、今まで成り立ってきた。反対意見の児童がいても何とかなる。けれど、もし納得してくれる児童が激減したら、私もアウトだ。世の中には完璧なんてない。それでも、私には、これ以外の策が見つからない。

私が、この策を実現するために活用しているのが『学び合い』の理論だ。私は、『学び合い』に出会えて、非常にありがたかった。その恩返しとして『学び合い』に関する発信をしている。むろん『学び合い』で苦しんでいる教員や児童生徒がいることも知っている。ものすごくものすごく申し訳ないのだけれど、それを何とかしてあげる力は、私にはない。私にできることは、失敗も含めて可能な限り私の経験を伝えることだけ。何とかしてあげたい気持ちはあるが、気持ちでは救ってあげられない。

それでも、ちょっとでも役に立ちたいので、私見を述べるとすれば、『学び合い』で授業を行っているつもりでも、心の中に「授業とは先生が楽しませてあげるものだ」「先生が学び合わせなければいけないのだ」という気持ちが強く存在していると、子供たちも教員も苦しくなると思う。『学び合い』は、「人間は学び合いたいという衝動を持っている」という仮説をもとに、それを学校教育に活用するための理論だと、私は考えている。「先生が楽しませよう」「学び合わせよう」という気持ちが強くなればなるほど、教員が様々な手立てを打ち、それが児童の衝動を押さえ込み、「先生、もっと楽しませて!」と受動的になってしまうのではないだろうか。

それは『学び合い』に限らない。子供達に責任を移譲する方向で授業や学級経営をしているクラスと、「先生が楽しませる」前提で学んでいるクラスでは、その違いが大きいと、私の目には映る。繰り返すが、先生が全員を楽しませることは無理なのだ。

しかし、世の流れはどんどん「先生が楽しませる」方向に向かっていないだろうか。学習指導要領改訂も、アクティブ・ラーニングも、個別最適化も、GIGAスクールも、よりきめ細かくて快適なお勉強を提供する方向に向かっているように見える。

私は可能性を感じない。

むしろ、危険性を感じる。

初めから決めつけているわけではないので、もし、私の価値観をぶち壊してくれるような事例があれば、喜んで見に行きたい。新たな策を知れるならば、私にも有益だからだ。