曖昧な立ち位置の狡さ
時々、自分の狡さに気付いて恥ずかしくなる。
ある時には、「自分は他の学校関係者とは違う変わり者だ」という立場で「学校や教員は、○○だから駄目なのだ」と断罪し、別な時には「学校は○○であるべきだ」とまるで「学校教育の代表者」であるかのように発言をしてしまう。自分の都合に合わせて、立ち位置を変えているのである。また、時には「東北地方の片隅で細々と働いている一教員」であるという立場(事実、そうであるが)と、「それなりに発信をしてきた実践者」であるという立場(一応、そうと言えなくもないかな)とを使い分けていることも、恥ずかしくなる。
簡単に言えば、立ち位置を曖昧にして使い分けるという狡さを、私は持っているのだ。それは仕方ない。自分の人間性の低さは自分でよく分かっている。
でも、そこでいじけるのでもなく、開き直るでもなく、隠すでもなく、ひけらかすでもなく、私なりの自然体で生きていきたいと願っている。自分の内面をだだ漏れさせるようなことはできないけれど。