『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

ズレていく感覚

様々な方から、苦しい学校の話を聞く。本来なら「ハミ出し者」であるはずの私のようなタイプが教員生活を楽しみ、従来の価値観で言えば王道且つ真っ当なタイプの方が、息も絶え絶えになっている話も聞く。

私個人としては、そうなっていく傾向もかなり前に掴んでいたし、状況の分析も自分なりに終えている。一昔前なら、とりあえず地元の高校を卒業すれば、就職をして、定年まで働いて、年金を貰うという人生の道筋が見えていた。学校に行って先生の言うことを聞いて卒業証書をもらうことに、それなりの意味があったのだ。しかし、現在でそんな従来的な人生の道筋が見えている人が、どれほどいるだろうか。大学を卒業しても就職がままならない世の中である。とりあえず先生の言うことは聞いておこう、という雰囲気がどれほど残っているだろうか。ちなみに「大卒の保護者が増え、教員の相対的な地位が下がった」という話も時々聞くが、私はあまりピンとこない。昔の学校で子供たちが教員の言うことを聞いていたのは、大卒だからだとは思えない。それなら、「体罰」の方が影響が大きいのではないだろうか。私が小・中学生の頃までは、平気で殴る、蹴るという指導をする教員が大勢いた。言うことを聞かなかったら、2〜3発殴る。今の50代の教員なら、そういう指導をしていた人も少なくないはずである。残念なことだが、先輩教員と話をしていて、この「体罰肯定」のメンタリティーを感じることも多い。

 

教員の言うことを聞いておくことが、安定した人生に繋がらなくなった。

言うことを聞かないなら殴る、という理不尽な指導は絶対に許されない。

 

だから、一昔前の感覚では、授業は成り立たないのだ。

それなのに、この感覚が今でも学校に残っている。そして、恐ろしいことに、若い先生にもこの感覚が伝播されている。

どんな教員を目指し、どんな指導をするのかは、各々の自由だ。私にとやかく言う権利はない。私自身も絶対的な正解を持っているわけではない。

でも、みんな、よくよく考えるんだよ。人生がかかっているんだよ。