『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

答えは真逆にあるわけではない

教員になるような人は、自分が児童・生徒だった時に学校教育に適応し、良い思い出を持っている人が多いのだろうか。しかし、ネットを見ていると、従来主流となってきた教育に対してルサンチマンを抱いている教員も少なくないと分かる。
私の場合、学年によって学校生活に適応できたりできなかったり、不安定な状況だった。それでも、そこから救ってくれたのは節目節目で出会えた先生のおかげだ。というわけで、全く良い思い出がないわけではないし、ルサンチマンがないわけでもない。ただ、どちらかと言うと、ルサンチマン強めの傾向だろう。

そんな私が気を付けているのが、“自分の憤りの真逆に、正しい教育があるわけではない”ということだ。

例えば、私は授業の上手い先生が好きだった。学校行事でそこそこ活躍するタイプの子供だったけれど、それでも行事は嫌いだった。だから教員になってからも、行事より授業を重視してきたし、少し前には学校に行事なんていらないじゃん!とさえ思っていた。

  • 行事が嫌い→だったら無い方がいい!

という単純な考え方である。

けれど、立ち止まって考えてみる。なぜ私は学校行事で多少活躍していたのに行事が嫌いなのか。例えば、子供の頃にいわゆる持久走大会で何度か学年1位になったが、教員になってから最も嫌いな行事は、持久走大会だ。その理由は何だろう。そんなことを考えつつ、なぜその行事が作られたのか、そして、今でもそれを大切にしたい人がいるのはなぜなのか、その行事が好きな児童と嫌いな児童の違いは何か。そういうことをちょっとずつ解いていく。

そうすると、結局、答えは人の数だけあるように思えてくる。自分の答えだけが答えなのではない。当たり前だ。しかし、怒りに心を支配されていた時には「これは間違っている。なぜなら、俺が嫌いだからだ!!」という訳の分からない思考に陥ってしまいがちだった。怒りとは本当に恐ろしい。

私は苦労して、少しずつ怒りから逃れられるようになってきたと感じているのだが、その代わりに抱いているのは悲しみである。これもあんまり楽しくない。私の修行はまだまだ続く。