『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

それでも前に進むのだ

当然のことだと思うようにしてきたから、嫌でもないし腹も立たないんだけど、ここ数年、半分は周囲に合わせながら仕事をしてきた。私のフルスロットルの授業は、周囲が引く。引くだけでなく、傷付く人もいる。人と「ちょっと違う」授業ならまだしも「全然違う」授業をしている私が悪い。私(と私のかつてのクラスの子供たち)の本気の授業は、実際に見せても理解してもらえないことが多かった。だから、外部の人の場合、本気のフルスロットルは、本当に信頼できる人にしか見せないようにしてきた。同僚にも見せないように気を使っていたけれど、なかなか隠し通せるものじゃない。だから、ちゃんと周囲との折り合いをつけるようにしてきた。

折り合いのつけ方も徐々に上手くなり、その結果、少なくない同僚が『学び合い』に挑戦してくれたし、それによって他のクラスでも楽しく学んでいる子供たちの姿が見られるので、悪くないと感じてはいる。

 

でも、自分のクラスの子供たちの成長に蓋をしているように感じているのも事実。
「それはお前が悪い」
「もっと上手くやれ」
と言われたこともあるし、私なりに一生懸命やってきたけど、でも、難しかった…。去年は、流動型『学び合い』を途中でやめた。今年は単元『学び合い』もあんまりやっていない。子供たちは勝手に次の日の課題や次の単元、他の教科の勉強をやってるけどさ。

 

昨日の国語。「説明文をもとに、穴の空いているものを探して、その役割を考える」という授業。出て行けとは言わないけど止めもしなかったら、子供たちがどんどん教室から出ていって、教室には4人しか残らなかった。穴を探しに学校のあちこちに出掛けていったのだ。様子を見に廊下に出てみると、みんな、ニコニコと楽しく、でも静かに学校中を思い思いに探検している。その姿を見ながら、私は今年1年間、この子達を「常識的な姿」に押し留めようとしてきたこと、でも、やっぱり無理だったことに気付いた。私は「常識的なクラス」を作る「常識的な教員」にはなれない。子供たちは、周囲に配慮しなきゃいけないと思っている私を乗り越えてくれたのだ。
私なんぞ、いつも子供たちの邪魔しかできないのよね。そして、そんな私の間違いに気付かせてくれるのは、いつも子供たちだ。

 

昔の私は、目の前の子供たちのことを最優先にし過ぎて、周囲とぶつかってばかりいた。その働き方が正しかったとは思わない。

今は、周囲との折り合いを最優先にして、ちゃんと子供たちに向き合えていない。この働き方も正しいとは思えない。

かといって、いじけたり嘆いたりし続けるつもりはない。私は前に進む。苦しくても、寂しくても、それでも前に進むのだ。