いつの話かは書かない。プライバシーに配慮するので、全てが事実ではないが、全くの嘘でもない話として読んで欲しい。
授業中、遠くから怒鳴り声が聞こえた。気になって見てみると、怒鳴られているのは、特別支援学級の子だ。怒鳴っているのは交流学級の担任。図工の授業のようである。
「やる気がないなら、やらなくていい!」
そう言われて、その子は材料を胸に抱えたまま、固まっている。腕の中で皺くちゃになっている材料が泣いている。昔の私なら
「何をやっているんですか!こんなのは指導じゃない!」
と怒れたのだけれど。
別の日には、泣き声が聞こえた。廊下にはうずくまって泣く子の姿。
「何があったの?」
と聞くと、授業中にお喋りをしていたら「出て行け」と言われたらしい。
「まあ、喋って良いとは言わないけどさ、でも、どうして喋ってたの?」
「だって、つまらないんだもん」
その子はちょっと落ち着きはないが、学力テストで学年10位以内に入るような子だ。そういう子がつまらなくてお喋りしてしまう授業…。ああ…。嗚咽と共に震える背中にそっと手を当てる。私のクラスなら、泣いている子には必ず誰かが寄り添ってくれるのに。そんなことも考える。昔の私なら
「喋る子供を追い出す前に、まずは授業と学級作りをまともにしなさいよ!」
と怒れたのだけど。
いつも教室で泣き叫んでいる子がいた。遠く離れている私のクラスにも聞こえてくる大声。ほとんど絶叫だ。担任も管理職も
「泣くな」
と指導する。泣いてはいけない!静かにしなさい!あなたの為を思って言っているんですよ!と何度も指導する。でも、毎日のように泣き叫ぶ。職員室では
「理由もないのに、泣くんですよね」
「人の迷惑を考えない」
「構って欲しいんでしょう」
なんて会話が聞こえてくる。
私はかつて担任した子を思い出す。あの子もよく泣いていた。私は「泣くな」とは言わなかった。ただ「俺はお前の味方だぞ。クラスの仲間もいるぞ」とメッセージを送り続けた。「苦しいな。泣きたくて泣いてるんじゃないよな。でも、泣くしかないんだな。それでも、俺は、あなたが泣いていると悲しい」そう思っていた。
今泣いているこの子には、味方はいるんだろうか…。
昔の私なら
「泣く理由はなくても、目的があるんですよ。泣かずにその目的を達成したり、もしくはその目的が不要になったりしない限り、その子は苦しいままですよ。叱って済む話じゃないんです」
と怒れたのだけれど。
怒れなくなったのは、その人達が限界なのだと気付いたから。私の正論をぶつければ、その人達は倒れる。倒れなかったとしても、その人達の苦しみが増す。どちらにしても、結果として、子供たちの苦しみも増すことになる。
だから、最近はずっと、怒りは自分にぶつけ、外には悲しみだけを出し続けてきた。子供たちの苦しみを思って悲しみ、救えない自分を恥じ、自分の無能さを呪った。
最近では、「全ては私が悪いのだ」と思い込むという技も覚えた。これは強烈だが使える。
あの人が不適切な指導をしてしまうのは、私のような人間がいることで、不要なプレッシャーを与えているからだ。私が悪いのだ。
本当に私が良い授業をしているのなら、あの人も私の授業の何かしらを真似てくれるだろうし、それによって授業が改善されていくはずだ。そうなっていないのは、私が悪いのだ。
これによって、怒りは外に出ない。
しかし、何事にもプラスもあればマイナスもある。どうやら私は、強烈なストレスに晒されていたらしい。自覚はないけど!鈍感な私!笑
おかげで体重は最も太った時期(これも原因はストレスだろうけどさ。)よりも10キロ以上落ちた。リバウンドはない。これは良いことかな?
ただ、押さえ込んだ怒りにはリバウンドがあるのだな。怒りを抑えることに成功すると、周囲が冷静に見られる。そうすると「あれ?思っていたほどには限界じゃないじゃん。もうちょっと頑張ってよ」と気付いてしまう。で、苛々してしまう。んでもって、腹が立ってくる。
「いや、腹を立てている私がまだ未熟なのだ。全ては私が悪いのだ」
と抑え込む。何とか押さえ込んでいると、周囲が冷静に見られる。「あれ?やっぱり…」と繰り返す。次第に怒りは降り積り、沸騰し、吹き出して、そして、また懺悔する。
アホの無限ループである。
頭が悪いというのは、本当に悲しいことだ。
全ては愚かな私が悪い、という、悲しいお話でした。だからみんな、ちゃんと勉強して、賢くなろうぜ。俺みたいにはなるなよ。