20代のころは、学年で“揃える”ことの意味を理解していなかった。あれは、主任が私を守ってくれていたのだ。
30代は単学級でほとんどを過ごしたから、学年で揃える必要がなくて気楽だったが、その分、学校で揃えることが煩わしくて、反発する気持ちがあった。今となっては、ただのワガママだった面にも気付くが、でも、同時に、この時期に“揃える”ことに反発することは必要だったのだなとも感じる。あれがあったから、今の気付きがある。
40代になってからは、私が我慢して“揃える”ことが増えてた。もともと揃えるのは苦手だし、嫌いな気持ちは変わらないけど、同時に仕方ないことだと思っている。かつては私が守ってもらったんだから。
ただ、気を付けなければいけないことがある。
何かを揃えるということは、何かを揃えないということなのだ。
何も揃えない、という世の中はない。日本では、車が左側走行で揃えられているように、赤は止まれで青は進んでよいだと揃えられているように。
少数派なんて言っている私だって、無意識のうちに「それは揃えて当然でしょ」と線を引いている。例えば、土日は休みだとか、月曜日は5校時限だとか。
それを勝手に、金曜日を休みにしたり、月曜日を4校時にしたりしちゃいけない。それは揃えるべき。だって、そう決めたんだから。勝手に変える教員がいたら、面倒なことになる。
と私は考えるけれど、でも、同じように、
筆箱の中身は揃えるべきだし、授業の基本的な流れも揃えるべき。だって、そう決めたんだから。勝手に変える教員がいたら、面倒なことになる。
と考える人もいるのだ。その範囲の違いに善悪はない。私には狭すぎる範囲だけれど、それを必要としている人もいる。
繰り返すけれど、何かを揃えるというのは、何かを揃えないのとセットである。「全てを揃える」なんて無理だし、「全てを自由に」というのも無理。それが分からないまま、揃えましょうと言ったり、揃えたくないと言ったりしても、多分、大してよい仕事はできないだろうな。