『学び合い』を実践して、おそらく12年目くらいだと思うが、毎年のように感じるのが、「やっぱり『学び合い』が合わない子はいるよね」ということだ。
『学び合い』に違和感を抱く方からもよく、
「あなたのクラスには『学び合い』が嫌だという子はいないのか」
と聞かれるが、そんなの居るに決まっている。『学び合い』が嫌だと思っている子、私が嫌いだと思っている子はいて当然だ。でも、それは、そう聞いた方のクラスでも同様ではないのだろうか。そう言って私を批判する方のクラスには、その方の考え方ややり方が嫌だと思っている子はいないのだろうか。そして、そういう子を、どうやって救っているのだろうか。
私の場合、『学び合い』が嫌だ、高橋が嫌だと感じている子は、周囲が助けてくれている。最初は
「私は友達に聞けません。だから、先生が教えてください。」
と懇願に来ていた子が、しばらく経つと
「先生、こんなにサインをもらえた!」
と自慢しに来るようになる、というはよくあることだ。
きっとこの子は、私のことを恨んだだろうな。『学び合い』の授業なんて嫌だったろうな。もしかすると、その気持ちは今でも消えないかもしれない。それでも、卒業後の人生を考えたら、私が上手に教えて感謝されることよりも、その子が友達に聞けるようになること、自分は聞いてよい存在なのだと実感できることを、私は優先したいのだ。
けれど、私が見える範囲には限界がある。
私が知らないところで救われている子も多いだろうが、私が気付かないところで苦しんでいる子がいるだろう。
だから、日々、願う。語り続ける。
同じクラスの仲間との小さな関わりを大切にして欲しい、と。その積み重ねが仲間を救い、そして、自分を救うのだ、と。
「そんなこと、教室で語るなよ、暑苦しい!」
と思っている教員は、もう少し感度を高めて欲しい。苦しんでいる子のために。