『学び合い』に対する批判を読む度に、西川先生のこのお話を思い出す。
私は、2010年に『学び合い』による授業を始めた。それから数年間は、全く知らない人から攻撃されることも少なくなかった。私のブログに「酷いコメント」を書かれることも多かった。
その頃と比べると、今は本当にやりやすくなった。
「本は何冊か読んだが、まあ、有効な場面とそうじゃない場面があるよね」
「考え方は理解できるけど、この高橋って奴は気に入らないな」
「教科や単元によっては使えるんじゃないの」
というような、第3段階の反応が増えたよなあ。ありがたいことだ。もちろん、第2段階の反応もまだまだあるけれど。
第3段階の反応が増えるということは、中にはちゃんと理論を知った上での鋭い突っ込みも増えるということなのだろう。セミナーの場では、思わず唸る質問をされることも度々ある。
そして、現実の学校では、第4段階の反応が増えていることを、私は知っている。
「私も子供達が学び合う授業をしたいけれど、本当にできるかなあ。心配だなあ」
「私も『学び合い』をやった方がいいのかなあ。自信ないなあ」
そう思っている教員が大勢いるのだ。大丈夫、できますよ!とは、私は言わない。『学び合い』に真剣に取り組んできたつもりだからこそ、その難しさも分かっているつもりだから。「誰にでもできる教育実践」なんてあるわけがない。
けれど、そういう教員の不安を消す方法を私は知っている。それは、世の中にもうちょっと『学び合い』が広まることだ。
自分の一斉授業に自信を持っている教員は少ないだろう。自信がないのに一斉授業をやれているのは、「多くの人がやっているから」だ。
多くの人がやっている、というのは、自信のない人の背中を押すことになる。そういう人が必ずしも「よい『学び合い』の授業」ができるとは思っていない。でも、力量の高い同僚がいれば、合同『学び合い』によって助けることができる。どんなに力量の高い教員でも、違う学年・教科で複数のクラスを同時に一斉授業することは難しいだろう。むしろ、他の教員が入ることで、担任への信頼が下がることも少なくない。でも、『学び合い』なら可能なのだ。(今のコロナの状況だと、それも難しいのだけれど。)
別に、世の中の全ての教員が『学び合い』で授業をやって欲しいとは思っていない。そんな状況は異常だ。でも、もう少し増えて欲しいと願っている。2010年と比べれば、確実に増えているだろうけれど、でも、まだ足りないんだよなあ。