『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

失敗しかないのだ

金曜日、後悔する指導をしてしまった。

とある活動中に、ある子の行動に対して、大声で笑っている二人がいた。その二人は、悪意を込めて笑っているわけではないのは感じる。放っておっくという選択肢もあった。しかし、私は「笑われている子」の様子を見ながら、しばらく考えて「強めの指導する」という選択肢を選んだ。

その理由は三つあって、

  • 過去にも、その子がちょっと下に見られているような言動があった。子供たちはそれほど気にしていないのも分かっているが、気にしていないこと自体が問題なのだ、という意識が私にあった。
  • また、他の学年もその様子を見ており、いわゆる「悪い見本」にはさせられない、という思いもあった、。
  • 故に放っておくことはしないが、静かに諭して思考を促すだけの時間が、その活動中には確保できなかった。短時間で指導したかった。

というものだ。

 

で、後悔している。

やっぱり、こういう指導は、こちら側の都合で行われる。

「学級経営上、こういった行動を許すわけにはいかない。」

「学校のためにも、指導すべき。」

「個への指導よりも全体への始動を優先したい。」

全部、私の都合である。だから、児童の目線から考えると、どうしても無理が生じる。かと言って、その二人の目線から考えようとすると、一部の子から見ればおかしなことになるだろう。

「どうして先生は、あの二人をそんなに贔屓するの?」といった感じで。

私は今、学校が非常に単純化されたくだらない評価に晒されているせいで、一部の子に意識が集中し、学級経営が破綻したり、学校全体が崩壊したりする事態に、問題意識が向いている。一部の子を意識する方が簡単だからね。

けれど、全体を見ようとすると、本当に難しい。というか、見ることができなくなる。深く考えずに

「教育にBestはない。Betterなものを選んでいく」

なんて考えていた時期もあるけれど、今となっては、なんて浅い考えで子供たちの前に立っていたんだろうと申し訳なくなる。そのBetterは誰にとってのBetterなのか。教員が選んだBetterが、誰かにとってはWorstになり得ると考えられなかったのだよね。

 

私は、毎日、失敗を繰り返しているのである。私が「よりマシだ」と思うことを積み重ねる。それは、他の誰かにとっては失敗だと分かっているけれど、仕方ない。そして、私が失敗だと感じても、他の誰かには、それほど悪くないことなのだ。