『学び合い』(二重括弧の学び合い)に対する典型的な誤解の一つが、「分かる子が分からない子に教える」授業だということ。そういう場面“も”ありますが、子供たちの多様な関わりの一場面に過ぎません。
— 高橋 尚幸 (@naotaka007) 2021年10月1日
失礼な言い方ですが「え?その程度しか見えないの?」と言いたくなります。
言っちゃうけど。
子供たちがゆるやかに繋がって学び続けると、その関係性は流動的になっていきます。『学び合い』による授業は、子供たちに緩やかな関わりを保障するので、教える・教えられるの関係は固定化しません。もし、「この人」に教えられるのが嫌なら、「あの人」の場所へと移動していいのです。
性格の悪い私は、『学び合い』を「関係性が固定化する」と批判する方が、「普通」の「グループ活動」を平気で行なっていることに驚きます。そのグループでは、教える・教えられるの関係が固定化しないのでしょうか。
私には利害関係のない方ですから、放っておいてもいいのですが、でも、腹が立ってしまうのです。『学び合い』による授業を始めてからの数か月、何人もの児童が「嫌だから席を立つ」ことができません。過去の経験的な学びと思い込みから、嫌でもじっと座っていたり、心を閉ざして固まったりしています。私のクラスは半年経ったので、そういった姿は減ってきました。(全く無くすには、私の経験上2年近くかかります。)でも、固定化したグループ学習の中で、自分がダメな人間だと飽きらめている子が日本中にいるのだと、妄想してしまうのです。
子供たちの心に絡まる透明な鎖に気付きもしない奴が、軽々しく口出しするんじゃないよ。
もちろん、『学び合い』の理論を十分に生かせず、授業としての質が低いケースがあることも知っています。じゃあ、その教員に「あなたは『学び合い』をやめなさい」と言えば万事解決でしょうか。私はそうは思えません。
『学び合い』に挑戦する方の中には、一般的な授業で苦労をした方も少なくありません。私だって、もともとはごく普通と言われる授業をしてきましたが、それでは越えられない壁を感じて『学び合い』による授業を始めたのですから。その中で、『学び合い』の授業が直ぐに軌道に乗った方もいるでしょう。でも、残念ながらそうじゃない方もいるし、また、『学び合い』も正直なところそんなに上手くいっていないけれど、でも今までよりはマシだ、という方もいるでしょう。そういう方を指して「アイツら危険だ」「駄目な奴らだ」と切り捨てる言動を時々見かけます。これも、悲しいことです。まあ、ご本人は切り捨てたつもりはないでしょう。でも、教員の生き方は、教室に出ます。教育とはそういう営みです。
ということで、溜まった怒りを沈めるために、ガス抜きの投稿でした。