『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

宮城県で働く小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

教員はなかなか濃淡に気付かないのだろう

少し前から「教員は、一部の『気になる子』ばかり気にしてはいけない。まじめにコツコツとやる子も見るべきだ」という主張をしてきた。

私の目には、学校は、一部の子への特別な手立てを気にするあまり、他の子へはマイナスの影響を及ぼしているように見えるのだ。

ネット上を見るとそういう「一部の子に気を取られるな。まじめな子のケアが大切だ!」という主張を目にする機会が、以前より増えたように感じる。最初は嬉しく思っていたのだが、最近は危険だなあと思っている。

別に、「私がオリジナルだ!真似をするな!」と言いたいわけではない。そういう主張を私よりも前からなさっていた方がいらっしゃるのも知っている。

見落としている - nao_takaの『縦横無尽』

危険だと思うのは、「教員の不平等な関わりが学級にマイナスを生む」という面では、「気になる子」を中心にするのも、「まじめにコツコツやる子」を中心にするのも、大差がないからだ。

私が「一部の『気になる子』ばかり気にしてはいけない」と主張するのは、言い換えれば「教員は可能な限りフラットな関わりを目指そう」ということだ。「フラットな関わりを目指す」を伝えるための方便として「まじめにコツコツとやる子“にも”目を向けるべき」と言っているに過ぎない。でも、なんだかそうではなく、「まじめにコツコツやる子“にこそ”べき」とでも言っているような発言をチラホラと見かけるようになってしまった。

その結果、どんな“新たな課題”が生じるのか、それにどう対応しているのか。そういう発言が次にこないので、信用できないのだ。

勇気をだして、ちょっと突っ込んで聞いてみたら、「うるさいことを言う嫌な奴」という扱いを受けてしまった。残念。

 

私は、今までの経験から、「どの子にも平等に目を向けようとしても、どうしても濃淡ができてしまうし、見るべきところを見落としてしまう。だから、子供たちが相互に目を向け合えるクラスを作りたいと願っている。それはそう簡単に実現しない。それでも、願い続け、その願いが祈りへと昇華する時、やっと子供たちに伝わっていく」と発言してきた。はっきり言って暑苦しい。私のクラスの子供たちは、こんな担任を持ってかわいそうだ。ここまで思っている私から見ると、何だかお気軽に「○○するのが大切だ」と言い切るのが恐ろしいのだ。その結果何が起きるのかを、私は経験してきた。簡単に言えば「見てもらえない子」の悲しさが集団にマイナスを及ぼす。
クラスが異なれば詳細は異なるものの、集団がどう動くのかは、想像できる。それは、ボールがたくさん入ったカゴを斜めにした時、個々のボールの動きは言い当てられないけれど、全体としては「ボールが落ちる」と予想できるのと同じだ。個々のことは分からない。けれど、全体のことは分かるのである。

 

教員は、自分の関わりに濃淡があるだなんて、なかなか気付かないのだろう。もちろん、私もそうだ。贔屓なんてしたくないし、しているつもりもない。けれど、私の言動に不平等さを感じている子もいるんだろうな、と想像はしている。それが誰か分かればいいんだけれど、頭の悪い私には、それすらも分からない。ごめんね、みんな。もっと良い先生になりたいよ、私は。

愚かな私は、「授業の中で、子供たち一人一人を見取り、適切な支援を行っている」という方に対して、「すごいなあ」という気持ちだけでなく「本当にできてるの?」という疑いの気持ちも持ってしまう。黙っていよう、見て見ぬ振りをしようと思うこともあるし、そうしたこともある。でも、それを続けてしまうと、私が自分のクラスの子供たちに「自分のことだけを考えているのは“赤ちゃん”と同じだ。より広い範囲を自分に関係のあることだと考えられるようになりなさい」と語っていることが嘘になってしまう。勇気を出して突っ込んでみても、ちゃんと答えてもらえたことはない。きっと、私の聞き方が悪いのだろけれど、どう聞けばいいのか分からない。
だからこうして発信している。そして、探していく。自分が作り出す濃淡を自覚し、それをなんとかしようと足掻き、でもどうにもならず、それでも傷付きながら前に進んでいく人を。そういう人が、私は好きなのだ。