『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

「個別最適化」に対する違和感がほぐれてきた

金曜日には、ほぼ丸一日、上越教育大学の大島さんにクラスの様子を見ていただいた。
「自分のクラスを一日中見られる」という経験は、過去に何度かある。本音を言えば、ちょっと大変だ。
というのは、誤魔化しが効かないからである。
1時間だけの授業なら、なんとでも取り繕うことができる。いつもと違うスペシャルな授業を行い、普段とは違うクラスの状況を演出することが可能だ。2〜3時間でも、どうとでもする自信はある。一単元だって大丈夫だ。同じ教科なら、そのつながりの中で「スペシャルな単元」を構成する程度の力量は持っているつもり。

けれど、丸一日ということは、複数の教科を見られるということである。
「『学び合い』はやり方ではない。考え方であり、在り方であり、生き方だ」
などとうそぶいている私なのだから、教科が変わっても一本の筋が通った授業をしていなかったら嘘になる。授業だけではない。勤務校では朝はお祈りから始まり、お祈りで一日が終わるのだが、そこに至るまでの姿を観察される。しかも、参観者は大島さんだ。複数の広角カメラで映像を撮られ、児童の側にはICレコーダー、私の口元には小型のマイク、という状態。で、分析されちゃう。誤魔化しようがない。

ということで、朝の語りから帰る時まで、まあ、普段通りの私と、普段通りのクラスの様子を見ていただいた。子供たちは、丸一日見られ続けるのだから、非常に緊張したことだろう。そして、時間が経過するにつれて弛緩するのも当然。で、私がちょっと語りかけて、自律を促すというも含めて、自然な姿を見ていただけたと思う。


放課後は、同僚の菊地さんを交えて鼎談。
大島さんからは「このクラスの姿は、個別最適化の一つの答え」というような過分なお言葉をいただいた。私自身は、そうは思っていなかった。むしろ、「個別最適化」という言葉は嫌いだったし。でも、大島さんと菊地さんのお話を聞きながら、私が抱いきた「個別最適化」や「個別最適な授業」という言葉に対する違和感の正体が見えてきた。実り多い鼎談だったなあ。

 

というわけで、私の「普段通り」の授業がどんなものなのか、私の自慢のクラスの「自然な姿」がどんなものなのかは、次号の「授業づくりネットワーク」誌で紹介していただけるそうだ。発売が近くなったらご案内するので、興味のある方は、お読みいただきたい。