自己否定
私は、自分が変だと自覚している。でも、もともとはそれほど変な教員ではなかったはずだ。12〜13年前は、当時も今も主流とされるような一般的な方法で授業をしていたし、そこそこの成果をあげていたし、「結構頑張っているまあまあの先生」だったと言っても、当時の私を知る人は否定しないだろう。
けれどある時、「そこそこ・まあまあで満足していたら、この子を救えないんじゃないか」と悩んだことから、私の教員人生の方向性が変わった。そうやってあがいている時に知ったのが『学び合い』の理論である。
『学び合い』は変だ。世の中が少しずつ動いて「アクティブ・ラーニング」とか「個別最適化」とか、『学び合い』と相性がよさそうなものが話題に上がってきたが、それでもまだ『学び合い』は変なまま。変というのは、授業の見た目が全く違うし、子供観・学校観も大きく異なっている、ということだ。
変な『学び合い』を継続する中で、自分なりに殻を破っていくと同時に、私自身も変化してきた。「まあまあの先生」からの脱却によって「すんごく良い先生」になるのではなく「すんごく変な先生」になってしまったのである。
私は「結構頑張っていた」自分を自己批判することで変化を続けてきた。でも、自分の弱さと愚かさ故に、手を緩めてしまう。「これ以上頑張らなくてもいいかな。ここで止まっても仕方がないよね」という思いがぼんやりと浮かんでしまうのだ。そんな時は言葉の力を借りて、前に進む。古田さんは子供たちに「賢さの階段」を示して「スタートを切った回数が賢さだ」と説いているが、私もその話を聞いてから、立ち止まったり階段を滑り落ちたりする度に
「ここでもう一度前に進むのが『賢さの階段』を上ることなんじゃないか」
「そこそこ・まあまあで満足するな」
「こんなんじゃだめだ」
「今の自分は子供たちの前に立つ資格があるのか」
と、踏ん張る。こういう時、SNSは本当にありがたい。応援してくれる方、一緒に踏ん張ってくれる方と出会うことができる。
一方で、私は叩かれる。
「あなたを見ていると苦しくなる。」
「あなたほどには頑張れない人の気持ちを考えろ」
「自分ができるからって、それを自慢するな。不快だ」
10年前から何度も言われた。
何度も言われる中で分かってきたことなのだが、私と相性が悪いのは、圧倒的に「結構頑張っていて、それなりの成果を上げている」人のようだ。つまり、かつての私と似たタイプ。もしかしたら、私の「それなりで満足するな」と自己否定する言動が、そういう人を否定しているように受け取られるのかもしれない。
本当のことは分からない。分かったところで今更、多数派には戻れないし、ね。