『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

蕎麦湯とTwitter

以前、Twitterを頻繁に使っていた時に、蕎麦屋の女将さんから聞いた蕎麦湯の話を思い出した。

蕎麦湯には、蕎麦を食べて冷えたお腹を温めるという効果もあるが、もう一つ、別の意味がある。蕎麦つゆを薄めると味も薄まるが、どんなに薄めても出汁の風味は残る。むしろ、蕎麦つゆを蕎麦湯で割ると、塩っぱさが減って出汁の風味が際立つ。蕎麦湯を出すのは、自慢の出汁を味わって欲しいという蕎麦屋の心意気なのだ。

という話である。一杯の蕎麦湯に現れる蕎麦屋の心意気。なんと素敵な話だろう。

 

話は変わって、教育実践や教育に関する論考の話。

自分の実践や論考を広く公表しようとする時、「王道」なのは書籍や雑誌原稿、実践論文という形だろう。これらを世に出すには、それなりの試行錯誤と推敲が必要だ。

しかし、Twitterだと簡単に自分の実践や論考を公表することができる。140文字という限定的な文字数だから、濃く書くことなんて不可能。自分の実践の一部分をかいつまんで、誰でも気楽に。

しかし、この140文字というのが、なかなかに味わい深い。実践や論考の一部分だけを書いても、そこには、何かが残るからだ。あたかも、蕎麦湯で薄めても出汁の風味が残るように、140文字の中に残っている何か。私はそれこそが、実践者の心意気だと思っている。

140字に香る実践者の心意気。蕎麦屋にも負けないものだと思ってきた。

 

もちろん、全ての教員が「実践者」として生きているわけではない。色んな生き方があっていい。だから、特段公表するような心意気がない人だっているだろう。というか、そういう人が大多数だ。実践者として生きないのだから、自分の実践や論考を世に問う必要なんぞない。

けれど、例え140字という手軽さがあっても、自分の実践や論考を公表する以上、そこにはそれなりの心意気があるものだと、私は思っていた。

しかし、そうではなかった。それもまあ仕方ない。そういう時代なのだ。誰もが気軽に発信者になれる時代である。

 

でも、どうかお願いだから、そういう心意気がないのに勝手に蕎麦湯に混ざってこないで欲しかった。実践者のふりをして、砂糖水や、薄めためんつゆや、刺激だけを目指した唐辛子を、蕎麦猪口に入れてこないで欲しかった。というか、ほとんどの人はそうしている。別物のB級グルメとして楽しんでいる。私だって、時々は、蕎麦湯に七味唐辛子や生姜を混ぜて飲んで遊んだりするしね。
でも、時々、分からない人がいるんだな。お湯に唐辛子をたらふく入れて、蕎麦猪口を突き出してくる。無視して飲まないと、唐辛子を撒き散らす。

「すみません、そういうのは要らないです。出汁の風味を味わいたいんです。薄めても出汁の風味は残るんですから」
と言うと、怒る。
「薄めたら味がなくなる飲み物を否定するんですか」
ええと、何と言ったらいいのかな。と戸惑う。


けれど、全て私が悪いのだ。Twitterには、実践者の心意気が残る、なんていうのは私が勝手に思っていたことだから。
蕎麦屋の蕎麦湯だって、心意気として出している店がどれだけあるだろう。何となく高級店の雰囲気がするから、出さないと客からクレームがくるから。そんな店が多そうだ。だから仕方ない。私が間違っているのだ。

 

もしくは、砂糖水や薄いめんつゆや唐辛子を飲んだふりをすればよかったのかな。
そして

「あ、心意気を感じます」
みたいな台詞を言いつつ、裏では

「あんなの、飲めたもんじゃないよ。どこにも実践者の心意気がない」

と掌を返す。そんな世渡り上手になれれば、もっと生きやすいのだろうけれど。