『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

データに振り回される教員

SNSでの発信を再開しようと思っていた矢先、Twitterに書いた意見に反論を受け、色々考えた結果、Twitterは休止してブログでの発信をメインにすることに決めた。

Twitterでの出来事をかなり省略して書くと、

  1. 「公立の大変なところ」として「就学援助を受けている家庭が多い」という意見をいただいた。
  2. 私が「就学援助を受けている家庭が多いから、何だというのですか」という返信をした。
  3. これに対して強烈な反論を受けた。

という流れだ。私が受けた反論の中身は、

  1. 親の経済力と子供の学力には相関関係がある。だから、就学援助を受けている家庭が多いと、学力が低い児童も多く、大変だ。
  2. 就学援助を受けている家庭は、家庭教育力が低い場合も多く、大変だ。
  3. 準備物や服装、修学旅行費など、授業以外のことへの配慮も必要になり、大変だ。
  4. 自分が、そういう児童に対応してきたと書くのは、力量のない教員へのマウント行為だ。

というものだと、私は解釈した。私は驚いたし、悲しく感じた。

 

Twitter上の書き込みは、就学援助を受けている保護者や児童も目にするかもしれない。

これを読んでいる人に考えて欲しい。

あなたは全くこのブログもTwitterの件も知らない状態だとする。その状態で、あなたのクラスの就学援助を受けている保護者が

「Twitterに『公立学校は、就学援助を受けている家庭が多くて大変だ』と書いてありました。うちの子は、先生にとって迷惑ですか?親の経済力が低いから、うちの子の学力も低いのですか」

と聞いてきたら、どうお答えになるだろうか。

「全然、迷惑ではありませんよ。それに、本人の努力次第で学力は伸びます。そんな意見は気にしないでください」

と答えないだろうか。そして、そんなTwitterの書き込みを「ふざけた意見だ」と腹立たしく思わないだろうか。

私は、こういう場面をあり得ることと考え、腹立たしく思ったのだ。

 

おかしいのは、「就学援助」が「大変だ」と受け取られかねない表現だからだと思う。「就学援助」だから大変なわけではない。私はそれを「就学援助を受けている家庭が多いから、何だというのですか」という表現で指摘したつもりだったが、表現がまずかったため、全く伝わらなかったようだ。

また、我々教員は、データはデータとして見つつ、自分と地続きのクラスを忘れてはいけないのだと思う。経済的に苦しい家庭でも、親が愛情を持って子育てをし、子供もしっかりと努力している家庭はいくらでもある。その家庭を頭に思い浮かべれば、Twitterで無責任なことは書けないし、そういう書き込みを許せなくなるんじゃないだろうか。データは大切だが、振り回されてはいけない。データは個別に見れば必ず例外が存在する。そして、我々の目の前には、むしろ例外がゴロゴロと転がっているものだ。データの使い方が下手だと、目が曇る。データを上手く使い、目の前の現象を見る解像度を上げていくことが重要ではなかろうか。

私への反論の中には「親の経済力と子供の学力は比例する」なんていう酷い誤解も混じっていた。これなんて、まさにデータに振り回される教員の典型的な姿だろう。

また、就学援助を受けていれば、修学旅行費も援助対象だ。修学旅行費の問題は「就学援助」とはあまり関係ないのではないか。まあ、後から支給されるから、そこで色々配慮は必要だけれど。これは、データに振り回されるというより、イメージに振り回されているとでも言えようか。

 

私の対応がまずかったので、私に反論する複数の人達は、何度も前述の主張を繰り返した。その度に「ああ、これで就学援助を受けている保護者が、自分は迷惑な存在だと勘違いする危険性が高まってしまった」と反省した。私が「就学援助を受けている家庭がいても、まったく迷惑じゃありません」と書いたせいで、火に油を注ぐ結果にもなってしまった。私は「俺は対応できるぜ!」と教員向けに言いたいのではない。「学校は、様々な子がいても迷惑だなんて思っていませんよ。対応しますよ」と保護者に言いたいのだ。対応できない教員もいることは承知しているが、でも、そういう人には研究と修養に励んでもらうしかない。教員の義務だ。

すぐに挑発的なことを書いてしまう自分の不徳は反省する。だからどうか、心ある人が「なおたか憎さで、冷静さを失わないで」と止めてくれたら嬉しいのだけれど。