結果に結び付く課題
『学び合い』が安定して継続できるかどうかは、簡単に言えば「トップランナーが走り続けてくれるかどうか」です。トップランナーというのは、テストの点数が高い子、という意味ではありません。学ぶことを楽しみ、どんどん学び続けている子のことです。
中には、テストの点数が高いけれど、『学び合い』で「走らない子」もいます。自分ができたらそこでお終い、という子。私はそういう子に
「教えなさい!」
とは言いません。言うとしたら、
「暇なら教えてくれればいいのに」
くらいです。
そういう子を気にするより、トップランナーのことを気にします。『学び合い』で活躍する子のテストの点数がどんどん高くなっていけば、自分で走らない子も、焦って学び合いだすのです。
多分、少なくない小学校のクラスでは、評価と授業内容が合っていません。『学び合い』に限らず、ね。もし、テストで評価するなら、『学び合い』の課題とテストが繋がっていなければならないのです。
一方で、ある程度、授業にこだわりのある教員は「テストのための授業」なんてやりたくないでしょう。私もそうです。なんかつまらなくなってくるんですよね。この「つまらない」という感情はどうしようもありません。「梅干しが嫌い」というのと一緒です。好き嫌いは、理屈ではなかなか変わりません。
テストと繋がっていて、でも、つまらなくない授業。1学期の後半から2学期にかけての時期は、そんなことを意識して授業を考えています。
5月は緩めないように
5月になると、子どもたちは『学び合い』による授業に慣れてきます。慣れること自体はよいことですが、私の場合、慣れは緩みにもつながりがちです。
緩みを防ぐために、何度か
「一人も見捨てるんじゃない!」
と強要して失敗したことがあります。私としては、「まだできていない子に声をかけないことが、どれほど損なのか」を分かっているので、ついイライラしてしまうのです。でも、子どもたちは分かりません。だって、「一人も見捨てないことを目指す集団」がどれほど心地よいか(そして、それは実は、ものすごく自然で穏やかな状態だと私は感じています。)ということを経験していませんから。
ですから、まずは「まだできていない子に声をかけないことが、どれほど損なのか」を語って聞かせるようにしています。
『学び合い』の本に書かれているのは、
「一人を見捨てる集団は、二人目、三人目を見捨てるよ。それは自分かもしれないよ」
というもの。私も
「困っている人に本当は気付いているのに、気付かないフリをしていると、どんどん心が衰えていく。自分でも、気付いているのかいないのか、分からなくなっていく。そうやって、『仲間を助ける』能力が失われたクラスになって、いじめがはびこる」
なんてちょっと怖い言い方をします。
が、こういうネガティブな言葉って、連発したくないですよね。クラスが暗くなります。
前向きな言葉としては、
「仲間のために頑張れる人が、仲間から最も信頼されるんだよ。仲間のために頑張れる人になろう。とことん頑張れる人になろう。どこまで頑張れば『とことん』と言える?最後の一人が分かるまでだよ!」
なんて言って煽ることもあります。
ただ、今までで一番「効果的」だったのは、一人で寂しそうな子を見ていたら、私の涙が止まらなくなってしまった時です。叱ることもなく、でも、隠すこともなく泣いていました。
「俺はみんなが大好きだよ。全員が大好きだよ。だから、みんなが寂しそうだったり、悲しそうだったりすると、助けてあげたくてたまらない。でも、先生一人では、寂しそうな人全員を助けられないんだよ。ごめんなさい」
と話をしました。たくさんの子が泣きながら聞いてくれました。このエピソード、初めて書いたかもしれませんね。書かなかったのは、他の方の役に立たないからです。こんなの、テクニックでも何でもありません。これを演技でやったら、ただの詐欺師です。
言葉より心。
と書くとなんだか安っぽいですが、教員がどんな思いでいるのか、はやっぱり重要です。言葉だけじゃ、人の心は動きません。
でもね、心だけで動くかと言われると、それもかなり難しいと思います。
心をどう形に表すか。
私が意識しているのが「一人も見捨てないことが得になるシステム」です。
つづく!はず。
4月は閉じられた関係性を打破する
初期の『学び合い』においては、課題を「みんなができること」を目指します。
さて、なぜ初期の『学び合い』では「みんなができる」が大切になるのでしょうか。
それは、初期の『学び合い』においては、第一に「関わりを増やすこと」が重要になるからです。多くのクラスでは、教員が思っている以上に関係は希薄です。以前、私の勤務校にゴリさんが来てくださった時、研修で
「子どもって、仲良しのことは話しても、他のことはほとんど話をしていないんですよ」
という話をしてくださいました。具体的な事例を挙げての話で、同僚は皆
「そう言われればそうかも・・・」
と感じたそうです。私の印象でも、多くの子どもが「友達」とか「仲間」と感じているのは3〜5名程度です。その閉じられた関係性を打破するために、私も4〜5月は「全員達成」を課します。それによって、クラス全員に意識を向けさせるためです。
これを子どもたちには、こんな風に伝えます。
「人間は、普通に暮らしていると、3人とか5人とかの小さなグループを作ります。これは、石器時代や縄文時代から続くものらしいです。でも、5人程度の小さなグループだけでは生活が成り立ちません。物を作るにしても、商売をするにしても、もっと多くの人と関われなければ、不可能です。学校という特殊な場所では、小さなグループでも何とか誤魔化してやっていけるかもしれません。かなり嫌な思いもするだろうけれどね。でも、学校の外は石器時代ではありません。現代です。小さなグループでは誤魔化しきれないし、生きていけないかもしれないよ。より多くの人と関われるようになりましょう」
これは伝わりやすさを重視した言葉ですから、厳密に言えば「間違い」かもしれません。でも、それほど外してはいないと思っています。
4月は、閉じられた関係性を打破し、可能な限り多様に繋がれるようになることを重視します。この時期に多様に繋がっておくことが、この後、学びを加速させる上で重要になるからです。では、「可能な限り多様」とは、どれくらいでしょうか。それは「これ以上、教える相手がいなくなるまで」です。まだ分からない人がいるうちは、もっと教える相手がいる、ということ。「もう教える相手がいなくなりました」=「みんなができる」ようになるまで伝え合い、教え合うのが、4月の重要なミッションだと子どもたちに伝えています。
つづく!?