『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

緻密というより窮屈

算数の教科書を見ていたら、「スモールステップ」の細かさに苦しくなった。
つまずかないように、迷わないように。ていねいに指導事項が整理され、学べるように緻密に作られた階段。最近の私は、それがどうにも苦しい。

それらは、どれを見てもとてもよく考えられた並びだ。ある程度の人数の子は、この並びで学ぶことができるだろう。でも、それは「どの程度」の人数だろうか。

ここには、踊り場がない。ちょっと休む場、ちょっと立ち止まる場、荷物を降ろす場がない。つまりは、学び直す場がないのだ。パンパンに積み込まれた学習内容を時間内に終わらせるために、一直線に並べられたもの。子供たちはそれを順に学んでいく。
整然と正しく並べられた問題を、正しい速度で、正しい順序で学んでいく正しい子どもが、さて、どれくらいいるのだろうか。緻密になればなるほど、その流れに乗れなかった子は、途中から混ざることも、追いつくことも難しくなっていかないだろうか。

 

どこかでつまずいたら、あとは学べない。
一段飛ばしで駆け上がることも許されない。

そんな縛りの強さを感じてしまう。
それが苦しさの原因だろう。

「優れているつもりの教員」は、「子供が喜んでその階段を上っている」と勘違いしている。一人一人の違いが見えていない。苦しんでいる子が見えない。かつての私だ。

山道は、登ったり下りたり曲がったりするものだ。頂上まで一直線の山道などありはしない。

同じように、学習だって、一直線に分かるわけじゃない。分からない、できないと、分かった、できたを繰り返す。それが自然だろう。その繰り返しの中で「ああ、そうか」となっていく姿を、何度も見てきた。そういう学び、それが可能な授業や学校を私は目指したい。

 

けれど、分からない、できない子がいると、「これは〇〇についての指導が不足していることが原因だ」とさらにステップが増やされるのが最近の風潮ではないだろうか。もっと丁寧に、もっと緻密に。そして、窮屈になる。

それは、世の中の問題もあるだろうけれど、でも、耐えられない教員が多いことも原因なんだと思っている。子供たちの「分からない・できない」を受け止められないのだ。ま、受け止めるって、辛いもんねえ。。。