『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

実践者としての私は、終わったのだ。

私は自分自身が実践者として終わったのだと強く感じている。これはネガティブな感情ではない。

私は、実践者として自分の能力でやれるだけのことはやったと思っている。私は一流の実践者にはなれなかった。そんな才覚は無い。

一方で、アクティブラーニング系の授業・『学び合い』実践者としては、自分の能力以上の評価をしてもらったと思っている。

国語、算数、理科、社会の授業で言えば、私がほぼしゃべらなくても、教科書の内容以上の学習ができるクラスを育てる事はそれほど難しくなかった。体育でも準備運動から用具の準備、片付けまで、私が一言もしゃべることなく、授業が進むような授業をしてきた。最も苦手な音楽だって、子どもたちが楽器を分担して伴奏したり、合奏したり、合唱歌したり、発表したりするような授業をしてきた。まあ、授業については、それなりにやってきた。

あとは、自分たちで評価を出すとか、課題作りに取り組むとか、もうちょっとやってみたかったこともあるけれど、でもやれなかったと言うよりも、それほど興味を惹かれなかったとも言い換えられる。

また、ここ数年は、荒れたクラスの対応についてもずっと考えてきた。これについても、2000年前後の学級崩壊と、最近の学級崩壊の違いもあらかた見えたし、自分が対応するだけじゃなくて、他の先生がどう対応すればいいのかと言うのも見えた。数人が荒れているクラスと学級全体としての荒れの違いも、はっきりとわかった。

 


そして、私は管理職になった。

なろうと思ったのは、自分がこれ以上は実践者としての伸びしろがないと感じたからだ。そして、実践者として力を伸ばすことに興味を持てなくなったからだ。

伸びしろがないから、興味がなくなったのか、興味がなくなったから伸びしろを失ったのかはわからない。

でも、昨今の学校を取り巻く現状を変え、目の前の子どもたちを幸せにするには、実践者としての腕を磨き続けるだけでは足りないと強く感じている。そして、少なくとも学校を(2、3年ではなく)10年単位で関わり続けるような、そんな立場になるしかないと思ったのも事実だ。

運も味方して、私は今後やる気と能力の問題さえクリアできれば、1つの学校を20年近く経営することもできなくは無い立場に立った。もちろんそれをやりきれるかどうか、そして周囲が許してくれるかどうかは別問題だけど。

そうなると興味関心の対象が、今までと全くもって異なってしまった。

と言うことで、私は実践者としてはもうおしまいだ。これからは全く違う人間として仕事をしていくことになるだろう。

思い立ったらすぐに行動しないと我慢できない性格なので、とりあえずFacebookのアカウントを消した。Facebookでの活動は、実践者としての私の象徴だと感じたからだ。

 


今まで、実践者としての私を支えてくださった皆さんや、私の授業に多大なる影響与えて下さった皆さんに、心の底から感謝したい。

 


本当にありがとうございました。