『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

宮城県で働く小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。2月に単著発売予定「流動型『学び合い』の授業作り」発売

声の響きを使い分ける

今日、こんな話を同僚に話した。

子供たちに「起立」と指示を出す時、何のために立つのか、そのねらいによって声の出し方変えて欲しい。

これから元気に音読をするよ!という時の「起立」なら、高めのトーンで、上へと昇っていくようなイメージ。私は、上げる言い方、と呼んでいる。上げる時には、口内の奥を響かせる。

これから落ち着いて整列するよ。という時の「起立」なら、声のトーンも落ち着かせる。落ち着かせる言い方は、胸の辺りを響かせ、ちょっとダンディなイメージ。

静かにして欲しい時も、響きを使い分けるだけでかなり違う。胸を響かせて、やや大きめの声量で「話をやめなさい」というと、ピタリと話が止まる時がある。ただし、頻繁に使うと効果が薄れるけれど。

どんな時にどんな言い方が効果的なのかは、教員のパーソナリティと密接に関わっているので、自分で試行錯誤するしかない。でも、20代のうちに色々試せば、30代になってから、無意識に使いこなせると思う。

 

こんな面倒臭い話を聞かされる同僚に、申し訳なく感じる。ごめんね。

ただし、この手の話は、誰にでもするわけではない。出来そうな人にしかしない。

多様性と主体性

子供たちは多様である。

これに異を唱える人は少ないだろう。子供たちは各々が多様に感じ取るし、多様に考えるし、多様に行動する。皆が同じだったら、気持ち悪い。

 

主体的な学びが大切だ。

という意見も多く聞く。多様性が大切だと言う人と、主体性を大切にする人は重なっている印象がある。子供たちは多様なのだから、一人一人が主体性を発揮して、それぞれ個に応じた学びを行うべきだ、という意見だろう。ちなみに、私もその中の一人だと思っていただいて差し支えない。

 

でもね。ここで疑問が生じる。

子供たちは多様なのだから、主体的に行動する時に、全員が「学ぶ」という一律の行動を取るのは、おかしいのではないだろうか。

「学ぶ子もいれば、学ばない子もいる、それが自然なんじゃないの?子供たちは多様なのだから、全員が学んでいるなら、主体的に学んでいるように見えても、そこに強制があるんじゃないの?」

そんな疑問だ。

私は、この答えを、『学び合い』の理論と、みゆき会の実践で見付けた。

『学び合い』の理論で考えれば、一人一人をコントロールすることは無理でも、集団の方向性を決めることはできる。

そして、みゆき会の実践をとおして、人は「学びたい欲求」を持っているのだと確信した。

 

私が、流動型『学び合い』の授業ができるのは、学びたい欲求が強い子の力を借りて、集団の方向性を決めているからだ。

人は、衝動的に学び合う。それが、現時点での私の答えである。これをいつか、ちゃんとまとめておきたいな。

キャッチする努力

最近は、運を逃してばかりいる。その原因は、分かっている。逃しているのではなく、掴もうとしていないのだ。

今年度は「勝負の年」にするつもりだった。現任校での勤務2年目となり、昨年度やれなかったことをアレコレやる準備を整えてきたにも関わらず、コロナによって流れてしまった。で、私は「なんだよ、色々かんがえてたのに!」とちょっとイジケたのだ。

そんなんだから、様々なチャンスを逃すことになる。

偶然と必然 キャッチする努力

丈夫な肉体 シワの足りない脳みそ一つ

斉藤和義「幸福な朝食 退屈な夕食」

頭の悪さを自覚して、そろそろ動き出さなきゃいけない。