『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

宮城県で働く小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

学び合うということ

人に教えるのが嫌いだ。自分の実践について「教えてください」と言われると、ちょっと身構えてしまう。
以前は、人に伝えるのが下手なのだと思っていた。でも、だんだんと分かってきた。別に、上手い下手の問題ではなく、嫌いなのだ。
教えることは、教えられないことだ。教えてくださいと言われているのに教えられない。分かっていても、ちょっと悲しくなってしまう。

 

自分の実践について語るのは嫌いじゃない。だから、セミナーのような場に呼んでいただいた時には、心を込めて語る。
とは言え、自分から進んで語りたいとは思わない。多数の方に話をしていると、伝わっていない人のことを想ってしまうからだ。
伝わらないのは私の能力不足だ。でも、伝えられない自分を責め続けていると、段々と苦しくなってしまう。

 

だから、私の話を補ってくれる人と話すと楽しい。私にない知識を持っていて、それと私の話を結び付けて解説してくれる人。感性が鋭く、私が無意識で行なっていることに気付いてくれる人。私には持っていない視点から、私の話を分析してくれる人。そういう人と話すことで、私が何をしているのか、私という人間が何によって形作られているのかが見えてくる。そうやって私自身の輪郭が見えてくると、中身もはっきりしてくる。私は何を目指しているのか、私は何を大切にしているのか。自分一人で考えていた時には、見えていなかったな。

そういう時、相手の方に私は何を送れているのか不安になることもあるが、大抵は相手も「楽しかった」と言ってくれるので、とりあえずは大丈夫なのだろう。そもそも、相手の方も、私も、何かを貰おうとは考えていないからね。貰ったり与えたりではなく、お互いの間に、新たなものが生まれているのだ。

 

学び合うというのは、知識を得ることだけではない。
こういう経験があるから、私は教室で自信を持って語れている。
学び合うこと、人と繋がることは、自分の人生を豊かにしてくれるのだ、と。

切った尻尾は戻らない

架空の話である。

 

A先生が勤める学校では、産休に入った先生の後補充が決まらず、学級担任が一人足りない状況が続いていた。7学年が担任代わりとなっていたが、なかなか大変な状況であった。

しかし、やっと講師の先生が見つかり、一安心。と思ったのも束の間、その講師の先生は、特別支援学級の経験がない。一生懸命頑張っているものの、授業も学級経営も上手くいかないことも多かった。A先生も、度々手を貸したが、そう簡単に状況は好転しない。そりゃそうだ。児童も、教員も、育つには時間がかかるものだ。

 

そんな講師の先生に対して、7学年や管理職は徐々に苛立ちを募らせていく。それは言い過ぎだろう、パワハラじゃないか、という言動もあり、A先生は管理職に抗議したものの、管理職からは、いかにその講師の先生の指導が不適切かを説明され、必要な指導なのだと諭された。A先生は納得できない面もあったが、その場は一応、引き下がった。他の同僚もA先生に同調してはくれなかった。校内でも講師の先生は、陰口どころか、あからさまに蔑まれるようになっていく。
しばらくして、講師の先生は休むことが多くなった。そして、残念なことに、退職してしまった。

 

その後すぐ、新たな担任が見つかった。再任用の先生だという。経験豊富な先生が来るということで、管理職は安心しているようだった。

しかしながら、その後はどんどんひどくなった。新たな担任になって、そのクラスの児童は大暴れを繰り返すようになったのだ。授業を抜け出す、泣き叫ぶ、けんかをする、物を壊すといった様々な行動が起きるようになった。もちろん、以前からも多少はあった行動だが、比べ物にならないくらいエスカレートしたのである。

 

その理由は、A先生にはよく分かっていた。

以前の講師の先生は、未熟ながらも精一杯やっていた。至らない点も多々あるものの、それでも努力が実を結んでいることも多かったのである。
新たな担任の先生は、経験は豊富である。特別支援学級を担任したことも何度もある。それ故に、過去と同じような指導をした。簡単に言うと、“飴と鞭”である。がしかし、その指導ははっきり言って間違っている。今の60代は、平気で体罰をした。いざとなれば一発ぶん殴って言うことを聞かせればいい、という前提で、飴と鞭を使い分けていたのだ。今の学校ではというより、本来学校では、体罰は許されないことである。さすがに今の学校で、平気でそんなことをする人間はいないだろう。その分、嫌味で意地悪な方法で児童に鞭を打つ。それが児童の猛反発の原因である。

講師の先生が残ってくれていた方が、まだマシな状況だった。だからこそ、A先生は、講師の先生を助けようとしていたのだ。しかし、切った尻尾は戻らない。

 

管理職は、新たな担任へ何の指導もしなかった。
新たな担任は、「前の講師の指導が悪かったのだ」と何の反省もなかった。
児童は苦しんでいた。
A先生は心を痛めたが、自分も講師の先生のために大したことができなかったこと、その後も管理職に抗議をする程度の行動しかできず、それが児童を救うことに全くつながっていないこと、自分も同罪であることを自覚し、強く強く自分を責めた。A先生のクラスはそれなりにまとまっていて、「よい先生」と言われることが多いことさえも、「自分のことしか考えられいない、なんて駄目な人間なのだ」と自責の念を強めることにつながってしまっていた。

 

そして、A先生も退職をした。

誰かに期待し過ぎずに

多くの教員が同じような不満を述べる。管理職がちゃんと仕事をしていない。行政は現場を分かっていない。保護者は学校に任せ過ぎだ。子供たちが様々な問題を抱えている時代になった。分かる。私も感じる。

多くの上に立つ人も、教員に不満を述べる。人材が足りない。能力が足りない。向上心が足りない。努力が足りない。私は管理職ではないけれど、そう言いたくなる気持ちは、想像がつく。

多分、どれも正しいのだ。誰しも完璧ではないから、いくらでも不満は出てくるだろう。

 

けれど、どんなに不満を述べても、それで状況が改善されるわけではない。もしも私が

「上が駄目なんだよ。何も分かってない」

と言った時、この言葉が正解なら、駄目な“上”に状況を改善する力はないし、この言葉が不正解なら、駄目なのは私自身であり、その反省がない限り成長も改善もない。不満は何も生み出さない。

私も弱い人間なので、もちろん不満を持つことも、それを吐露することもある。でも、そこで終わらず、一歩踏み出して、

「ここから良くしていきましょう。みんなでやりましょう。みんなでやれば、できますよ!」

と前に進められる人に、私はなりたい。

そもそも、皆、人に期待し過ぎだ。もしも上に不満があるなら、自分が上の立場になるか、今の立場でやれることをやって、状況を変えればいい。それに、下にあれこれ言い過ぎる管理職は決まって言われている。

「だったら、自分でやればいいのに」

と。やったらやったで、邪魔だと言われるんだけど。

不満は多分、自分の理想や期待との差異から生まれているのだろう。あくまで私の主観だけれど、皆さんは誰かが自分を助けてくれるのを待っているように見える。でも、誰かが自分の仕事を楽にしてくれることなんてないのだ。それは『学び合い』の授業で、誰かが教えてくれるのを待ってじっと座っている子に似ている。どこかの誰かが助けてくれるなんて、都合のいい期待をせずに、まずは自分から動く。周囲を巻き込んでいく。そうすると状況が好転して、周りも自分も楽しく楽になっていく。『学び合い』でやっていると、この仕組みがよくわかる。西川先生から理論を学び、かつての教え子たちが実際にやってみせてくれた、ホモ・サピエンスの生存戦略である。