『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

もっと!を自分に課す

学ぶ教員の下でこそ、学ぶクラスが育つ。

学び合う教員の下でこそ、学び合うクラスが育つ。

もっと!を求める教員の下でこそ、もっと!を求めるクラスが育つ。

 

教員に成り立ての頃は、まともに授業ができなかった。しっかりした子が

「高橋先生の授業が下手なのは当たり前なんだから、私たちが頑張らなきゃだめでしょ!」

とクラスの他の子を叱っていたくらい下手だった。学級経営もめちゃくちゃ。集団の動かし方を分かっていなかった。だから、そのしっかりした子を苦しめてしまった。

それが「ちょっとマシになったかな?」と思えたのが3年目だった。自分が少し良い先生になれたような勘違いをした。その調子で4年目も乗り切った。

その勘違いが悪かったのだろう。5年目はダメダメだった。荒れはしなかったけど、覇気のないクラスだった。「いや、俺はやっぱり授業が下手だ。学級経営のことも」と強く感じ、それから授業や学級経営について本気で学ぶようになっていった。

 

1年目の私の授業は、食事に例えれば、料理になっていない料理、硬すぎる白米、出汁を入れ忘れた味噌汁、生焼けの肉や魚、味付けもただ醤油をかけただけ、野菜不足で栄養が偏っている。だから子供たちからすると

「高橋先生の料理は下手だけど、私たちが耐えて食べなくちゃ」

というような言葉になったのだな。

余談だが、今の学校では下手だけど食べようという感覚は皆無。コーンフレークだろうがカップラーメンだろうが買ってきた惣菜だろうが、とにかく「子供が美味しいと言うものを出せ!」というプレッシャーがきつい。若い先生からベテランまでいっぱいいっぱい。インスタントな実践が流行る。そんなの学びじゃないよな。昔から「すぐに食える冷凍食品」を求めるニーズはあったけれど、でも、あくまで緊急時用だったと思うんだよね。

 

さてさて。

私は3年目、4年目の時に、とりあえず子供好みの主菜を作るように頑張った。一品だけだけど、とりあえず食えるものを出す!ハンバーグをドーン!唐揚げをドーン!子供たちもある程度は満足。でも、栄養バランスめちゃくちゃだし、それが嫌いな子には結局我慢を強いていた。それでも、その時には満足していたのだ。子供たちが我慢しながらクソまずい料理を食べているのを見ていた1・2年目よりは笑顔だったから。「美味しい」と言ってくれたから。自分の精一杯だったから。私なりに学んだから、ちょっとは学ぶクラスへと育てられた、という面では、未熟な割に頑張ったよね、俺。

5年目は全くうまくいかなかったが、それはそれで幸運だったのだ。自分が作る料理は素人料理。プロとして恥ずかしいレベルだと分かったんだから。

プロとしてどんな料理(授業)を作れば良いのか。最初に目指したのは、二瓶弘行先生。今の私からすると意外だと思われるかもしれないが、20代の一時期、二瓶実践を追いかけていた。また、同僚の横山修先生も目標だった。福島県では有名な算数の大家である。

そうやって「もっと!」と学べば学ぶほど、自分に足りないものがあると次々に分かってくる。二瓶先生や横山先生を追いかけていく中で、自分にはどうしても救えない子がいることを痛感した。今の方向性でもっともっと!と自分を追い込んでいったら解決するのだろうか。これ以上頑張れるだろうか。自信がなかった。それでも、とりあえずやれる範囲で頑張っていた時、『学び合い』に出会った。もっともっとと追い求める気持ちは変わらないけれど、でも、方向性が変わったんだな。

その後も目標とした先輩はたくさんいる。中でも、やっぱり坂内智之さんと岩瀬直樹さんの存在は大きい。お二方のおかげで、私はもっとやらなきゃいけない、私はもっと頑張らなくちゃいけない、そう思い続けることができている。また、古田さんや藤原さんといった仲間とも出会い、学び続けているし、地元の学習会で学び合う仲間もできた。そのおかげで、私も学び合う効果を実感し、心から子供たちに求めることができる。

 

私がそれなりに楽しく教員生活を送っていられるのは、苦しんでいるからだ。満足してしまったら、多分、地獄になる。

楽しむためには、苦労しなきゃいけない。苦労も楽しむ、と言っても良いし、正しく苦労する、と言っても良い。

でも、若い先生には同じ苦労をさせたくない気持ちもある。満足しても良いよ!と言いたくなる。たださ、それだと地獄に進む道へ緩やかに誘導していることになるのかもしれない。

どうして、現状に満足すると、地獄へ進むことになるのか。それは、現状で地獄の苦しみに耐えている子がいるからだ。

「一人を見捨てた集団は、二人目、三人目を見捨てる。次は自分かもしれない」

『学び合い』では有名な言葉だが、真実であると私は思っている。因果応報だ。

だから私は、自分に「もっと!もっと!」と課す。それができなくなった時、私のようなダメ人間は、あっという間に地獄に落ちるだろう。