『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

想像力を持つ

私の鉄板の語りに「大人の条件」というものがある。

「今のことや自分の都合で行動するのが赤ちゃん。赤ちゃんは『今は人前だから、うんこは後でしよう』とか『親が眠そうだから、ミルクは我慢するか』とか考えない。大人はそれなりに考えなくちゃいけない。大人になるっていうのは、過去のこと、先のこと、より多くの人のことを考えられるようになることだよ」

簡単に言うと、こんな話だ。数年前に古田さんと話したことが基になっている。 

 

少し想像力を働かせて先のことを考えてみると、自分の行動のマズさに気付くことが多い。また、私は得をするけれど、他の人に損をさせていることもある。昨日もあった。私は良かれと思ってやったけれど、後から考えると他の人には迷惑だったよなあと、反省している。

私は人間としては本当にダメダメだ。だからこそ想像力を働かせておきたい。人に損をさせ過ぎると、必ずしっぺ返しがくるだろうから。

担任は寂しい仕事である

今日は運動会。運動会は天候が良ければ、それだけでまあ成功だろう。快晴の下、子供達の頑張る姿が見られるのだから、多くの人にとっては楽しい1日だったと思う。私にとっても楽しい1日だった。

 

さて、昨日書いたとおり、子供達は演技の前に円陣を組んだ。私が関わったのは、

「円陣を組むとしたら、いつですかね」

と聞かれ

「今じゃないかな」

と答えたことと、位置取りが悪かったので一部の子に

「もう少しこっちに来て」

と声をかけて歩いたことぐらい。子供達だけで円陣を組み、掛け声をかけ、元気にスタートした。私はそれを腕を組んで眺めていた。こういう時、担任は入らない方が良いと思っている。私は自分が大好きだから、子供が主役なんて言いつつ、油断をすると自分にスポットライトを当ててしまいがち。でもさ、寂しさを引き受けないと、本当の意味で子供達を育てることはできない思うんだよね。

クラスの中で、私だけが大人。私だけが一緒に卒業しない。私だけが立場が違う。だから、もともと私はクラスで孤独なのだ。子供達が主体的に考えたり、自律的に行動したりするほどに、私は更に孤独になっていく。その時感じる寂しさに耐えられないと、子供達の成長を邪魔してしまうことになりかねない。私が子供達からちょっと離れた位置にいるのは、邪魔しないため。それが私のスタイル。

隣のクラスの同僚に私のスタイルに付き合わせてしまうのはちょっと申し訳ない気もする。でも、若いうちに、担任は寂しい仕事だと理解して欲しいとも願う。その寂しさを引き受けることが大切だと確信しているから。

1日の最後に、私が入らない集合写真を撮って下校。

さて、来週からはまたもりもり学んでもらうことにしよう!

幸せである

最後の運動会練習の後、クラスの子が寄ってきてお願いをされた。

「明日、表現運動の前にみんなで円陣を組みたいんです。いいですか」

私は、

「もちろん。じゃあ、1組にも伝えておかなきゃいけないね」

と答えた。

ということで、私のクラス(2組)の子から1組の子へ伝わり、1組の子から1組の担任へ伝わっていった。

若い頃の私は、

「よし、円陣を組むぞ!」

と言って子供達を集めていた。それが悪いとは思わない。でも、こういうことを子供達から提案してもらえるのは、本当に嬉しいことだ。

 

また、今日の放課後には、数人の子供達が校庭で明日発表する表現運動の練習をやっていた。ある程度真剣だけれど、でも、適度に緩くて。まさに遊ぶように学ぶ姿。変に真剣に練習している姿より、私は好きだなあ。こういう姿を見られるのも、本当に嬉しいことである。

 

また、ある子が書いた「運動会の目標」には「いつもの学び合いを生かして」と書かれていた。この言葉も嬉しかった。別の子の書いた「運動会の練習が始まる前より、運動会の後は成長していたい」という言葉も良かったなあ。

 

私は授業を中心に子供達を育てていくタイプなので、運動会などの行事はあまり好きではない。私自身は、運動会の練習より、授業をしていたい。それに、どうしてもこういう行事は、私が前面にでる機会が増えてしまう。私の力量不足で、子供達に任せきれないストレスが大きい。

そんな中でも、子供達の素敵な言動を多々見ることができて、私は幸せ者だとつくづく感じる。本当にありがたいことである。