無駄な時間、無駄なこと
私には意地悪な面があって、「子どもたちが“簡単”に答えを導き出して欲しくない」と考えてしまいがちだった。迷うことに意味がある、悩むことに意義がある、そんな風に思ってもいた。
が、それは間違いだったと思う。簡単に分かる問題ばかりじゃつまらないだろう。でも、簡単に分かる問題なら、さっさと答えを出してしまう方がいい。そして、残りの時間を有効に使う方がいい。
「何時間勉強した」とか「何時間仕事をした」とか、かけた時間に価値を置き過ぎると、無駄な時間が増えてしまうのかもしれない。「時は金なり」というが、時間も金銭も、それ自体に価値があるわけではないだろう。それをどう使うかが重要じゃなかろうか。同じ成果を出すのなら、時間は短い方がいいな。
先日、
「先生、本当に教科書見ちゃってもいいんですか?答え、載ってますけど…」
と質問を受けた。私の答えは
「もちろん、いいですよ。答えが分かっている人なんてたくさんいるでしょう?大切なのは、答えが分かることじゃないからね」
それに続いて、その子は
「答えが分かるじゃなくて、理由が分かって、説明できること」
と続けてくれた。授業中、賢くて優しい子どもたちは「答えが分からないふり」をしてくれる。そんな無駄なことはしなくていいのに。
特別?
以前、西川先生が講演で「特別な支援が必要な子がいることは否定しない。しかし、9%もいる、というのは多過ぎる」という趣旨のことをおっしゃっていた。(私が初めて聴いた西川先生の講演の一節で、今でも時々録音したものを聞き返している。)
私もそう思っている。9%や10%もいるなら、それは「特別」な存在ではないだろう。それどころか「このクラスには発達障害の子が25人中5人います」なんて話も聞いた。2割もいるなら、「普通」の存在じゃなかろうか。
そうだ。普通なのだ。
きっと、どんな子だって「特別」で、どんな子だって「特別なニーズ」を持っているのが「普通」なのだ。でも、私一人ではそのニーズに答えられないから、必要な手立ては自分で選択し、みんなでやってもらうしかない。
発達障害や特別支援という言葉が広まっていること自体は良いことだと思っているけれど、今の状況があまり嬉しくは思えない。この状況を変えるために、私に何ができるだろうか。
些細な違い
以前、ある方から
「ほとんどの教員にとって、『学び合い』と◯◯の区別なんてつかないんだよ。そんな些細なことにこだわってどうする!」
と指摘を受けたことがある。その瞬間は、心底驚いた。
『学び合い』と◯◯。全く違うものじゃないか!『学び合い』は理論で、◯◯は技術。
この二つの区別がつかないなんてあり得ない!
そんな風に感じた。
けれど、今になってよく分かる。『学び合い』は考え方だ!授業理論だ!いや、集団経営理論だ!在り方だ!生き方だ!と鼻息荒く叫んでも、ほとんどの方には、そんなのどうでもいいこと。少しでも良い授業をしたい、今の状況を変えたい、そう願っている方にとっては、理論か技術かなんて、考えている暇はない。そして、『学び合い』が広まるには、私のような人間はむしろ邪魔なのだろう。その証拠に「私は『学び合い』の授業に◯◯を取り入れています」という方を時々見る。あの方がおっしゃっていたとおり。「あり得ない!」なんて息巻いていた私が間違っていたのだ。
それでも、私は私のままでいることしかできない。その「些細な違い」が引っかかってしまう。異なるモノを混ぜてみようと思えば思うほど、混ぜられない自分を思い知るのである。
一方で、混ぜる人を見てもイライラしなくなった。そこは素直に嬉しい。色んな人がいた方がいいのだ。だって、子どもは教員以上に多様なんだから。