『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

見抜く

坂内さんのエントリーを読んで。
http://d.hatena.ne.jp/tontan2/touch/20131029/p1


わたしが「○○さん、手の挙げ方が上手だね」式の指導が嫌いなのは、「褒めているようで、褒めていない」からです。

「○○さん、手の挙げ方が上手だね」と言った時。
本当にその挙手が素晴らしくて、教師が心から賞賛しているのか、それとも、周囲の子を操るために心無い言葉を言っているのか。
それを子供達はちゃーんと見抜くのです。


褒めないのが良いってわけではありません。


わたしの場合、例えば、子供の成長を見取って「ここが良くなったね」と言ってあげることはとってもとっても重要だと考えていますし、また、レポートを書いている時に優れているものを抜き出して「これを参考にしてごらん」ということもよくやります。
これは心から「良いね!」と思うから賞賛するのです。伸ばすための方法として褒めるのではありません。


また、掃除の時間にグダグダしている他学年の子に「6年生を見ろ!掃除とはこういうものだ!」と言ったことがありました。
この時、わたしのクラスの6年生は褒められたような気持ちになったかもしれません。更には、それによって、6年生の掃除が益々良くなりました。でも、それを狙って言ったわけではありません。自分のクラスの姿が他学年の見本となるものだと自信を持っているから出てきた言葉なのです。


本心だからこそ、教師の言葉に力がこもり、それがオーラとなって学級を伸ばします。


でも、子供を操る手段として褒める教師は、本気じゃないので、大切な時に見落としたり、見落としても平気だったりします。そういう甘さや不誠実さが、負のオーラとなって学級を乱すのです。


「何と言うか」ではありません。
「何を思っているか」です。
教師が思っていることを、子供達は見抜くのです。分かっちゃう子がいるんです。


だから、教師は、子供達に対して変に誤魔化そうとせず、本音で対峙するしかないと思うのです。