『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

気持ち悪い

昨日の話です。


現任校は、地区の半強制的任意研究団体から「特別活動研究校」に指定されているため、学校をあげて特別活動に取り組んでいます。
そのため、学級会も盛ん。我がクラスの昨日の課題は「教室をかいてきにしよう」でした。岩瀬ゴリさんの本を教室に置いてあるのですが、それを読んで教室リフォームプロジェクトを知った子が議案を作ったのです。1学期にも「教室の何をどこに置くか」は子供達と考えたのですが、それは教師主導。リフォームと言うほど大々的ではありませんでしたし、あまり思い切ったアイディアが出ませんでした。今回は「大移動」でした。4校時目だけでは終わらなかったのですが、「だったら昼休みにやろう!」とテキパキと活動し、昼休み後の清掃の時間にはなんとか間に合わせました。子供達の口から「やりたい」と出た時、集団は本気で動んですよね。


ですから、わたしが良いと思ったことでも、方法レベルのことはなるべく語りません。かといって、教師が何もせずに子供集団に委ねても、なかなか上手くいかないでしょう。
わたしがゴリさんの本を読んで「これは真似したい!」と考えるのと同じように、子供達も色々と考えます。今のクラスは16名ですから、わたしの16倍考えるということです。でも、教師が考えれば考えるほど、子供達は思考を停止してしまいます。だから、教師が考え過ぎて答え=取るべき行動を語らないように気をつけなければいけません。
ちなみに、子供達から提案がなければ、教室リフォームはわたしから提案するつもりでは居ました。それは「課題提示」という形でね。でも、それよりも、子供達から出てきた時の方が、効力は高いだろうなと感じます。


前置きが長くなりました。
「教室をかいてきにしよう」の話し合いの中で、こんなやりとりがありました。

A君:「本棚の場所が出入り口から近くて使いにくいので、変えた方が良いと思います。」
司会:「本棚の場所を変えようという意見が出ましたが、他の人はどう思いますか。」
B君:「本棚は1学期に動かしたから、もう動かさなくて良いと思います。」
C君:「僕も同じ意見で、本棚を動かすと時間がかかるから動かさなくて良いと思います。」
司会:「では、本棚は動かさないということで良いですか。」
全員:「良いです。」


そこで思わず、この駄目担任は言ってしまいました。
「お前達、気持ち悪い。」
マスコミに知られたら大問題になってしまいそうな一言ですね。でも、言ってしまいました。そして、こう続けました。
「本棚を動かしたいという意見が出て、反対意見がでる。それは普通。それなのに、一瞬で全員が同じ意見になる。それがおかしい。別に本棚を動かして欲しい訳じゃない。でも、みんながあっと言う間に同じになるのが気持ち悪い。意見なんて、そうそう揃わない。どうでも良いことでも、どんなに大切なことでも、全員が同じなんてそうそうならない。それなのに全員の意見がそろった。どこかおかしい。かと言って、先生が言ったから、全員が本棚を動かそうという意見になっても気持ち悪い。学級の意見は、そろわないのが普通だし、それが自然な集団です。意見を無理やり揃えるのが『折り合い』ではありません。違う意見を持っている人とも協力するのが『折り合い』です。今日の話し合いは、教室を快適にする話し合いでしょう?快適と感じる空間は、人によって違います。違うけれど、全員が快適になるにはどうすればいいか、もっと考えなさい。」


その後は意見がドンドン出て、収集がつかなくなり、
「話していたって埒が明かない。やってみよう。」
となりました。


現任校は一学年十数名の単学級。子供達は上手にぶつかり合いを避け、表面上は穏やかな人間関係を構築しています。それは、小さく固定的な集団で生活して行く上では、理にかなった方法でしょう。けれど、この子達もいつかはもっと大きな集団に属します。中学校に行けば、5つの小学校が合わさるのですから、その「小集団で生きて行く知恵」なんてあと数年しか役に立たないのです。
子供達は先のことは見えません。先を見て、より良い未来を夢見て語るが教師の役割だよなあと思います。


ところで、念のために書いておきます。若い先生がこれを読んでいたら、
「お前達、気持ち悪い。」
なんて言葉、絶対に真似してはいけません。思っても言ってはいけません。こういう「方法レベル」のことは真似したら絶対に失敗するのです。
場合によっては、教育委員会や校長に苦情がいってもおかしくないレベルの失言です。わたしだって「良い言葉だ」と思って言った訳ではなく、後から「こういうことを言っちゃうから、俺は主流派の教師になれないんだよなあ。」と反省しているんですから。