『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

すんでの所で気づく

昨日のエントリに少々反応をいただきました。
メッセージやコメントをくださったみなさん、ありがとうございます。もちろん、私も悩むし、苦しみます。教育という営みは難しく悩ましい。心からそう思います。

 

せっかく反応をいただいたので、昨日の続きを書きます。

今日は自分のブレを認め、子供達に謝ることからスタートしようと思っていました。
「昨日の私は叱りすぎでした。ごめんなさい。叱られて伸びるクラスはありません。叱っていたら、みんなの良い姿を見逃します。今日はみんなのがんばりをできる限り見つけます。みんなが落ち着いて学べるように、まずは私が落ち着きます」

そう言おうと考えながら、通勤しました。その時、ふと頭をよぎったのが「眼鏡」です。パソコンを使う時にはブルーライトカットの眼鏡を使用しているのですが、それをかけて教室に行こうかな。そして
「これは、みんなの良いところが見えるようになる眼鏡です。この眼鏡をかけて、みんなの良いところをどんどん見つけるよ」
と話そうかな。。。。

 

と考えていて、気づきました。
「うわ!俺、ダメだ、またブレているよ!!!」

もともと、私はこういうことが大嫌いなのです。だって、もしも学校長が職員室で眼鏡をかけて
「これは、みなさんの良いところが見えるようになる眼鏡です」
なんて言ったら、腹が立ちませんか?私なら腹が立ちます。そんなものは嘘っぱちじゃないか、と。眼鏡をかけなきゃ「良いところ」が見えないのか、と。

自分がやられて嫌なことを、子供達にやろうとしてしまうのは、「子供達を操ろう」という意識の表れでしょう。そして、子供達を「下」に見ているからかも。
もちろん、私が眼鏡をかけて行ったら、喜んだ子もいるでしょう。でも、私のように腹を立てる子もいるかもしれません。腹が立たなくても、嫌な気持ちになる子もいるでしょう。
私は学級経営を行う際、「こういうことに腹を立てる子」を念頭に置いてきたはずなのにな。そして、「腹を立てる子」が増えて欲しいと願っているはずなのにな。

もちろん、教員にもいろいろなタイプの方がいらっしゃるでしょうから、様々な小道具を上手に使う方もいるし、それによって子供達を惹きつけられる方もいるでしょう。けれども、私はそういうタイプではありません。私の今までのスタイルとも、主義主張とも、まったく相容れない考えです、眼鏡は。

 

いやあ、すんでの所で気づくことができました。
今日、眼鏡をかけて教室に入ってしまっていたら、今年度の私は、きっと終わっていましたね。危なかった。踏みとどまれて良かった。
そして、ここ数日の悩みが少し晴れたようにも感じます。

今日の朝は、特に何のひねりもなく、素直に子供達に謝りました。そして、暑苦しく語りました。集団の不調の大きな原因は、学校行事が立て込んで、子供達も私も忙しすぎることにありますから、そう簡単に集団がジャンプアップはしません。それでも、イライラしているより、ずっとずっと良い1日でした。

ある方からいただいたメッセージの返事に書いた言葉ですが、結局、じっくりジリジリと集団を前進させていくしかないのでしょう。その歩みの遅さとゴールまでの果てしなさに気が遠くなりますが、でも、冷静に振り返ると結構前に進んでいるし、ゴールも結構、近づいているものですよ、経験上ね。