これを全部やってみる、というパワー
鈴木優太さんの単著、拝読しました。単純に「面白い」!!これはちょっと試してみたいな!から、ここまでやるか!?まで、面白さ満載の55種類です。
ただの「アイディア紹介」というだけでなく、その先にある子供たちの姿も感じられるのが、さらに面白さを膨らませてくれました。楽しいだろうな、こういうクラス。
これを全部、いや、実際にはこれ以上に色々とやってみるという鈴木さんのパワーは、いったいどこから生まれてくるのでしょうね。
親としての目
私は教員だが、家に帰れば親である。時々、「もし、我が子にこの指導をされているのを目の当たりにしたら、どう思うだろうか」
と自問自答するようにしている。
自分の指導をこの視点で振り返ると、反省すべき点が多々見つかる。我が子がこんなことを言われたら、こんな扱いをされたら、ちょっと腹が立つな。そう反省する。それはつまり、私が子供たちを下に見ている瞬間があるということだ。恥ずかしいかぎり。
別に、子供が生まれて、私の指導力が上がったとは思わない。子育ての経験が学校教育に役に立つとも感じない。教員の力量は、そんなことでは決まらないだろう。
ただ、この「親としての目」で自分の指導を振り返れることは、よかった点かもしれない。
揃える、ということ
20代のころは、学年で“揃える”ことの意味を理解していなかった。あれは、主任が私を守ってくれていたのだ。
30代は単学級でほとんどを過ごしたから、学年で揃える必要がなくて気楽だったが、その分、学校で揃えることが煩わしくて、反発する気持ちがあった。今となっては、ただのワガママだった面にも気付くが、でも、同時に、この時期に“揃える”ことに反発することは必要だったのだなとも感じる。あれがあったから、今の気付きがある。
40代になってからは、私が我慢して“揃える”ことが増えてた。もともと揃えるのは苦手だし、嫌いな気持ちは変わらないけど、同時に仕方ないことだと思っている。かつては私が守ってもらったんだから。
ただ、気を付けなければいけないことがある。
何かを揃えるということは、何かを揃えないということなのだ。
何も揃えない、という世の中はない。日本では、車が左側走行で揃えられているように、赤は止まれで青は進んでよいだと揃えられているように。
少数派なんて言っている私だって、無意識のうちに「それは揃えて当然でしょ」と線を引いている。例えば、土日は休みだとか、月曜日は5校時限だとか。
それを勝手に、金曜日を休みにしたり、月曜日を4校時にしたりしちゃいけない。それは揃えるべき。だって、そう決めたんだから。勝手に変える教員がいたら、面倒なことになる。
と私は考えるけれど、でも、同じように、
筆箱の中身は揃えるべきだし、授業の基本的な流れも揃えるべき。だって、そう決めたんだから。勝手に変える教員がいたら、面倒なことになる。
と考える人もいるのだ。その範囲の違いに善悪はない。私には狭すぎる範囲だけれど、それを必要としている人もいる。
繰り返すけれど、何かを揃えるというのは、何かを揃えないのとセットである。「全てを揃える」なんて無理だし、「全てを自由に」というのも無理。それが分からないまま、揃えましょうと言ったり、揃えたくないと言ったりしても、多分、大してよい仕事はできないだろうな。