『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

ちょっと未整理ですが。

『学び合い』による授業と一斉形式の授業の差異について、数年前まで大きな誤解をしていました。『学び合い』に出会った直後は、『学び合い』による授業は自由度が高く、一斉形式の授業は自由度が低いと思い込んでいました。「自由なのが『学び合い』だ」。こんな単純な話ではないと今は思っています。

 

『学び合い』を続ける中で、「行動」の面でも「思考」の面でも、『学び合い』による授業の中で不自由を感じている子もいると気付きました。「好きな人と学んでいいですよ」と言われて、自由に相手を選べている子がどれくらい居るでしょうか。本当はもっとゆっくり考えたいのに、友達から「教えて」と頼まれ、そして教員から「教えないことは悪いこと」とプレッシャーをかけられ仕方なく教えている子もいるのではないでしょうか。「知っていることを人に伝えるだけの授業なんてつまらない。私の知らないことを教えてくれる先生ならいいのに」という声も聞こえきそうです。

だったら、グループの中で学び合わされている方がまだ自由かもしれません。一斉形式の授業の方がゆっくり考えられる子もいるでしょう。教えてくれる先生が良い!という子がいるのも理解できます。

 

『学び合い』の(表面的な)自由さに惹かれた私は、一時期、迷いを抱いていました。『学び合い』ってそんなに自由じゃないじゃん!!って。

 

それでも私が『学び合い』による授業を行っているのには理由があります。

学ぶ相手を選べない子には、少しずつでいいのでつながりを広げて欲しいと願っています。そのためのチャレンジの場として授業を使って欲しいのです。

ゆっくり考えたい子には、ゆっくり考えられるようにしたいと願っています。でも、その結果、友達とのつながりを失ったら損です。せっかく思考を深めたら、それを友達に伝え、尊敬と信頼を得る場として授業を使って欲しいのです。

先生に教えて欲しい!という子は意欲や好奇心や向上心がある子なのでしょう。それを満たす方法が「先生」だけなのがもったいないと感じます。これから先の人生を考え、様々な生き方を身に付ける場として授業を使って欲しいのです。

 

でも、これはあくまで私の願いです。願っても届かない子もいます。届かない子がいるのは仕方がありません。でも、その子の人生は「仕方ないか」とは思えません。届かないけど、それでも、どうにかしたい。それが「一人も見捨てなくない」ということであり、『学び合い』を『学び合い』足らしめている部分だと感じています。