子供たちの言葉に胸が詰まる
市のコンクールの関係で、子供たちに作文を書いてもらった。「心身の健康」についての作文だ。原稿用紙2枚程度。これくらいなら、軽々と書ける子が増えてきた。逆に言うと、これ以上書けるようになるには、今年は「回数不足」だと分かっているんだけど、思うところがあって「ほどほど」にしている。
さて。
その作文を読んで、思わず泣けてしまった。
何があっても受けとめられるクラス作りが大切だ。
というようなことを書いた子がいた。自分が“クラス作り”の主体になっているのを感じて、嬉しかった。
学び合いのクラスには、心を健康にする栄養があふれている。
というようなことを書いた子もいた。クラスへの愛と自分たちで学ぶことに対する自信が感じられて、これも嬉しかった。
他にも、クラスが自律してきたことを強く感じる言葉に溢れていた。子供たちが自律してくればくるほど、「先生のおかげ」「先生ありがとう」とは言わないようになってくれる。もちろんそれを望んでいるし、そうなるように「仕向けている」自覚もある。感謝していなくても「ありがとう」と書くだけならできる。クラスが嫌いでも「好き」と書くこともできる。しかしながら、自律していないのに、自律した振りをするのは、なかなか難しいだろうと思う。自律した経験がなければ、自律したクラスの言葉は紡げないからだ。
私は
「こういう言葉が出てくれば、クラスとして大丈夫」
と判断がつくようになるまで、かなり時間がかかった。不遜な言い方だけど、これらの作文に書かれた言葉の本当の重みを理解できる教員は、それほど多くないだろう、とも思う。
こういう言葉が出てくるまでに、このクラスはいくつもの苦しみを乗り越えてきた。その経験を経なければ、こういう言葉、こういう想いは出てこない。その苦しみは、私の力ではどうにもできないものだった。もし私だけで何とかしなければならない状況だったら、どうにもできずにおわった可能性を否定できない。子供たちがみんなで乗り越えたのだ。
その尊さを知っているからこそ、子供たちの言葉に胸が詰まる。子供たちを尊敬する。このクラスの担任であることを誇りに思う。
そして、同時に『学び合い』が広まって欲しいと切に願うのだ。