『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

簡単なこと

前回のエントリーに繋がる話なのですが、わたしは、『学び合い』に出会ってから、一斉指導も上手くなったと思います。
というのは、『学び合い』のおかげで集団の動かし方が分かったからです。なので、一斉指導と『学び合い』を混ぜても、ある程度の結果を出せるようになりました。わたしが見付けたちょっとしたコツが、もしかすると誰かの(それは多分、若い先生の)役に立つかもしれないので、メモっておきます。
断っておきますが、これから書く授業をオススメしているわけではありません。
『学び合い』をやりたいけれど、何らかの理由で一斉授業をやらざるを得ないような場合に渋々やる授業というイメージで書いていますから、誤解しないで下さいね。
わたしだって、完全無欠の『学び合い』を最初からやれる環境だったら、こんな授業はしません。だって、大変だし、一部の児童は苦しくなるし。


さて。


まず、ある程度の一斉授業を行う上で、絶対に必要なことがあります。それは、「全員に聞こえるように話すこと」です。
授業が成り立っていない先生を見ると、これが出来ていません。教室の一番後ろにいるとよく分かります。
声が小さ過ぎたり、早過ぎたり。あとは、口調。語尾を無意味に強調していたり、力み過ぎていて聞きにくかったり。
自分の声が聞こえているか否かに無頓着なのはとても危険なことだと思います。
でも、難しいことは置いといて、とりあえずは、ゆっくりはっきり話せばいいんです。全員の顔を見回しながらね。
これは『学び合い』でも同じです。最初の語りは、ぜひ、全員に聞こえるように意識して話して欲しいです。


次に、「全員を狙いながらも、百発百中は諦めること」。
全員に向けて話しても、理解出来るのは一部の子です。どんなに話術を磨いても、全員は無理なのです。
西川先生は、よく「2割」とおっしゃいますよね。確かに、そんなものなのかもしれません。
けれども、難しいのは、最初から2割を狙って話してはいけないのです。最初からターゲットを限定して話してしまうと、極端な言い方をすると、そのターゲットの中の2割しか理解してくれません。あくまで、全員に向けて話しながら、2割が理解できた時点で、これ以上は説明できないのだと思うしかありません。
いつまでもダラダラと話していると、分からない子はどんどん授業から離れていきます。分かっている子はイライラを募らせます。
話をしながら、子供達の様子を感じ取れるかどうか。ここは教師の腕で結果が変わってくるところかもしれませんね。


そして、授業の流れにおいて、「差異を利用すること」が出来れば、一斉授業なんて楽勝です。
言い換えるなら、「分かっている子もいない子もいるのが当たり前」ということ。
授業の導入で問題を提示した時、多くの授業者は「全員分かっていない」という前提で授業を進めます。
けれど、本当は、すぐに分かる子や既に分かっている子がいるはずです。また、1分で分かる子もいれば、5分で分かる子もいます。
どんなに考えても分からない子もいます。子供達の理解は十人十色ですからね。
ここで「はい、どうぞ」と言えれば『学び合い』ですが、でも、色々あってそうはいかない時には、ちょっと「自力解決」の時間を取らざるを得ないでしょう。(少なくとも、福島県では。)例えば、研究授業で他の人が見に来るような時には。
じゃあ、それは何分くらい取ればいいのでしょう?
答えは簡単です。何分でもいいのです。だって、すぐに分かる子や既に分かっている子がいるんだから。そして、何分経っても分からない子もいるんだから。
ですので、適当なところで、数名に発表させましょう。発表させれば、多くの参観者は安心します。
わたしの場合、
「まだ分かっていない人?」
とか
「自信のない人?」
なんて聞いて挙手させ人数を把握してから、発表をさせます。で、褒めておきましょう。
「分からないと言える人は偉い!」
って。ここで大切なのは、分かっていない子がいる状態で発表をさせることです。時々、授業後に
「発表の段階でまだ分かっていない子がいた。自力解決の時間が短過ぎる。ヒントカードがあった方がいい。教師の支援が必要だ」
なんて批判を言う人がいます。そういう人は、全員が理解できるまで発表させないのでしょうかね。で、全員が理解できていたら何のために発表させるのでしょうね。
「分かっていない子が分かるために」発表するんじゃないでしょうかね。
では、何人くらい発表させればいいのでしょうか。
答えはこれまた簡単です。何人でもいいのです。だって、数名の発表で分かる子もいれば、何人発表させても分からない子もいるんですから。
ですので、適当なところでもう一度聞きましょう。
「まだ分かっていない人?」
「納得できていない人?」
ここで手が挙がったら、
「まだ分からない人が居るから、これがゼロになるようにみんなで話し合いましょう」
と学び合いに移行しましょう。この流れなら、一斉授業オンリーの人でも、「この先生は、こういう話し合いの工夫をしているんだな」と理解してくれるでしょう。
ここで手が挙がらなかったら、追加の発問をしたり、練習問題をやりましょう。で、
「みんなで話し合いましょう」
と続ければいいのです。
最後に、「まとめ」を書かせればほとんどの児童が学習し、ほとんどの参観者が安心する一斉授業が、結構簡単に成立すると思います。
国語・社会・算数をごちゃまぜで書いているので具体性には欠けますが、詳細が知りたい時にはコメント欄でご質問下さい。


教科や単元の違いなんて、実は大して問題ではありません。ほとんどの授業は「そこまでのレベルにない」からです。ほとんどの授業で、「上手くいくかいかないか」はもっと簡単なことで決まっているような気がします。わたしが考えているのは、上記の通り「全員に聞こえているかどうか」「全員が理解できないことを分かっているかどうか」「児童の理解には差異があることを前提にしているか」くらいのものです。
わたしの場合、これが分かってから一斉授業なんて楽勝になりました。教師の腕によっては、集団が育っていない『学び合い』よりも、より良い結果を出せると思います。


でも、これは長続きしません。学び合う時間が限られてしまうことが大問題です。時間が短ければ短いほど、教師の発問や説明の腕に左右されたり、指名順やそれを聞く時の教師の一挙手一投足で結果が変わったりしてしまいます。その結果、理解できない子も増えます。子供達が関わる時間が足りなければ、それを救うのは教師の仕事ですが、教師のエネルギーは有限です。救えないことも徐々に増えます。
それが気にならないなら、この授業でずっと行けるかもしれませんが、わたしには無理でした。


逆に、『学び合い』がしっかりと成立した上で、教師が腕をふるうという順番が、本当は正しいんでしょうね。