何かあって当たり前
堀さんの言葉には多大な影響を受けているが、中でもとりわけ好きなのが、この言葉である。
トラブルは起こるものと考えましょう。相手は子どもなのです。トラブルを起こさない子ども集団など、むしろ異常な集団です。「トラブルを起こさない」と考えずに、「トラブルは起こるもの」と考えると、指導にもゆとりが生まれます。この精神的ゆとりが実は指導を機能させるのです。
— 堀 裕 嗣 (@kotonoha1966) 2020年6月18日
私には「トラブル」という言葉より、「ハプニング」という言葉の方がしっくりくる。ハプニングが起こってはいけない、と考えていると、ハプニングが起きる度に苦しくなる。ハプニングが起きないようにする努力は、大抵上手くいかない。だって、努力で防げないからハプニングはハプニングなのだ。
だから、ハプニングに対応できるように、余裕を持っておくことが必要だ。「そんな余裕はないよ!」という声も聞こえてきそうだけれど、余裕とは誰かが与えてくれるものだと考えず、自分で作り出さなくてはいけない。
教務主任を務めていた時には、そう心掛けて、日程や時程を組むようにしてきた。上手くいかないことの方が多かったけれど。ただ、少なくとも、教員として子供たちには「ハプニングはあって当然なんだよ。それをみんなでどう乗り越えていこうか」と余裕を持って接しなければいけないし、年長者として若者に「ハプニングはあって当然なんだよ。それを子供たちとどう乗り越えていこうか」と余裕を持って接しなければいけないと考えて、実行しているつもり。
今は、担任の立場から、忖度せず、ガンガン物申している。多分、他の人からは「うるさい奴」に見えるだろうな。でもね、ハプニングに備えていないと、私のような凡人は、見て見ぬふりをしてしまいがちなのだ。そして、致命傷を負うことになる。
そうそう。堀さんの言葉ですごいのは、トラブルが起きても仕方ないよ、ではなく、「トラブルを起こさない集団は異常」とまで踏み込んでいることだ。集団は何かが起きるもの。何も起きないといいな、なんてことを望んでも無理だよね。一方で、トラブルやハプニングのない異常な日々を望んでいる人が何と多いことか!!有り得ないことを望んでいたら、そりゃあ苦しくなっちゃうよ。
教室も、学校も、何かあって当たり前だ。何もないといいな、と望んでしまうのは、人の性としてシンパシーは抱くけれど、ま、無理なものは無理なのよね。