『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

戦いごっこ

いくつかの記事を読んだだけなので、詳細は分からない。
けれど、記事を読んでいて考えた。

1年生が集団で暴行。しかし、学校では「ポピュラーな遊び」と認識。

ああ、「戦いごっこ」かな。

戦いごっこ。地域によって呼び名は異なるかもしれないが、男の子がよくやっている遊びだ。
強く訴えておくが、私はこれで人を殴った場合には、「遊び」とは認識していない。殴ったら「暴行罪」だ。
過去も、現在も、クラスの子供達に何度も指導しているが、「遊びで人を殴る」ことは「暴行罪」だ。
「遊んでいるだけです」
「ふざけているだけです」

「強くやっていません」
「お互いにやっているから、平気です」
という言葉を簡単に認めるわけにはいかない。クラスの中で、そういう行為が日常的に行われていることが問題なのだ。

すぐに「テレビやネットの影響だ!規制しろ!」という人がでるが、それは無意味だ。テレビやネットは「非日常」だから価値がある。規制しても別の非日常を生み出す人がいるだろう。
繰り返すけれど、そういう「非日常」の行為が日常的に行われている異常さが問題なのである。

 

そして、この行為をよくよく観察すると、必ず「やられない人」がいる。いつも攻撃する側。いつも勝つ側。そういう子である。
そういう子が威張っていられるのは、教員の後ろ盾があるからだ。それに気付いていない教員が多いのが、更なる問題なのだけれど。

多くの集団では「やられない人」だけが固定していて、「やられる人」が変わることが多い。しかし、徐々にやられる人が固定化されていく。

そうすることで、多くの人が、自分はやられなくなるからだ。こうして、固定化したいじめが生まれていく。

 

戦いごっこを見て、こうした流れが見えている人だけが、子供達に響く指導ができる。

戦いごっこをしたいなら、どこに線を引く?何はしてよくて、何をしてはいけないの?と考えさせることができる。
形だけ指導しても、子供たちの行為は変わらない。


まずは見よう、子供達に何が起きているのかを。自分のクラスに「異常さ」の芽がないかを。