『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

納得を得る

  • 子供たちは有能である。
  • 子供たちを信頼しよう。
  • 子供たちに任せよう。


よく聞く言葉だ。私もよく使う。

 

  • 子供たちってすごい力を持っているんだ。
  • 大人にはできないことが、子供たちにはできちゃう。
  • 余計な口出しをしないで、黙って見守っていればいいんだよ。


これもよく聞く。その通りだと思う。

『学び合い』で授業をしている私は、子供たちを有能だと考え、可能な限り任せ、見守っていきたいと考えている。

けれど、有能な子供たちを信じて任せたのに、上手くいかない時がある。その原因を私は「委ねてしまったから」だと言い続けている。集団が集団として機能するためには、結果を求めなければいけない。クラスに対してであれば、どんな学習内容を、どうやって、いつまでに、どの程度達成すればいいのか、ということを明示し、さらには、それが「あなた」にとってどんなメリットがあるのかを納得してもらわなければいけない。

私の場合は、

  1. 教科書に示されている内容を
  2. どんな方法でもいいから
  3. 最初は45分という枠を設けるが、徐々に広げながら
  4. クラス全員がワークテストで80点や100点を取れる程度に

達成することを求める。

いろいろ試したが、教科書&ワークテストの組み合わせが、最も安定的にやれる。学びが安定してきたら、その上をどんどん求めていくけれど。(ちなみに、新しい教科書になって、かなりやりにくくなってしまった。特に算数。いろいろとお世話になったけれど、だからこそ、もう少し頑張って欲しかったな、T社さん。)

難しいのが、「この課題を達成することにどんなメリットがあるのか」を納得してもらうことだ。納得があるから、放っておいても学び合う集団になる。

先日、同僚の先生から

「放っておけば学び合うって、そんな簡単な話じゃないんだと分かりました」

と言われたが、おっしゃる通り。最初に形成される学び合う集団は4~5人程度の小規模。しかも、排他的だ。その壁をこえて、さらに広く動ける子は、ごく稀である。1/31の力しか個人には注げない私は、私の能力を「壁を越えた交流作り」に向けて集中投入する。『学び合い』の最初のうちは、私も気合を入れて語るし、子供たちも物珍しさもあって、壁を簡単に越えてくれているように見える。初期衝動の『学び合い』。ロックっぽいな笑

けれど、段々と私の気も緩む。それに伴い、数人の壁を越えて交流していた子たちも、ちょっと手を抜いてしまう。

そこでもう一度語り直せれば、教室は一回り安定性が増す。のだけれど、ここで毎年のように、私の中の嫌な姿が顔を出す。それが「俺のおかげだ!と思いたい」自分だ。その思いによって、子供たちは有能であることや、子供たちに任せようからスタートしていることを忘れてしまう。教室を安定させられるかどうかは、私次第。それは間違いない。けれど、私の役割は限定的だ。有能な集団がその力を発揮できる場を整えることと、力を発揮すべき方向性を示すことなのだ。その役割を忘れ、自分が主役になろうとしてしまう気持ちが、私の中にある。ここで効果的な指導をしよう。この言葉かけで子供たちを一気に変えよう。そうやって出しゃばって、クラスのバランスを崩すことになる。

「俺のおかげだ!と思いたい」気持ちは、自分の手にこびり着いて、なかなか落ちない。落としたつもりが気が付くと再び着いている。そのまま指導をすると、子供たちをコントロールしようとしてしまう。私が気持ちよくなるように、私が満足できるように。そういう指導になってしまう。クラスのリーダーは私の顔色を伺って動くようになる。そして、私の気付かないところで、問題が頻発する。

集団が力を発揮するために必要なのは、納得なのだ。『学び合い』を続けてきたことで、どんなメリットがあったのかを確認し、納得してくれた子が、壁を越えていく。もし、『学び合い』にメリットがないなら、やらない方がいい。

じゃあ、『学び合い』のメリットって何なのか。それは、人に聞いて語ることではないと思う。それをやってしまうと、子供たちは余計に納得しないんじゃないかな。子供たちと共に探す。それが大切なのだろう。